私的に‘80年代を語る!
マイク・タイソン タイソンという傑作が生まれ、去って行くまで


ボクシングという競技の姿・スタイルは、その発生時、現在とはかなり趣きを 異にしていました。

19世紀初頭、支配者である白人たちは、自分の所有する黒人奴隷の中からめぼしいのを選んで、 その拳に皮帯をまきつけて固め、他の白人の所有する黒人奴隷と殴り合わせて、 それを眺めて楽しんでいました。

ボクシングの原型です。

時が経って、やがて拳から皮帯が外されると、いつのまにか闘っているのは白人 の方になってました。
強い男であるというステータスは黒人の手から離され、支配者である白人のためにのみある称号と なったのです。
素手の拳(ベアナックル)で殴り合う草創期のボクシングにおける最初の王者は ジョン・L・サリバン
その強さから、半ば神格化された存在でした。

その後、当時のクィンズベリー侯が定めたルールによって、選手は 素手にグラブをはめて戦うように。(このルール「クィンズベリー・ルール」が、 近代ボクシングのルーツとされています。)
クィンズベリー・ルールによって初めて行われたタイトルマッチで、王者ジョン・ L・サリバンと対戦したのはジェイムズ・J・コーベット
若きコーベットは、それまでだれも観たことがなかった、フットワークをまじえた 新しいテクニックでジョン・Lを翻弄し、21ラウンドでKOします。
その後、黒人初の世界チャンプジャック・ジョンソンが、白人たちのブーイング にまみれながらも、君臨。この後「強い男」の称号は、人種によって分け隔てられることなく、 その機会が平等に与えられるようになりました。これが20世紀初頭の話。

・・・こうして、単なる暴力とは区別されるべきボクシング という競技が成立したわけです。

成立後約100年ほど経った’80年代に入って、ボクシング競技における最高の テクニックと、その表現のための最良なパワーを兼ね備えたスーパーチャンピオン が、まさに突然現れました。

“アイアン・マイク・タイソン”です。


プロボクシングにおける階級と体重
ヘビー190ポンド以上
J・ヘビー
クルザー
175〜190ポンド(86.00kg)
L・ヘビー168〜175ポンド(79.38kg)
S・ミドル160〜168ポンド(76.20kg)
ミドル154〜160ポンド(72.57kg)
S・ウェルター147〜154ポンド(69.85kg)
ウェルター140〜147ポンド(66.68kg)
S・ライト135〜140ポンド(63.50kg)
ライト130〜135ポンド(61.23kg)
S・フェザー126〜130ポンド(58.97kg)
フェザー122〜126ポンド(57.15kg)
S・バンタム118〜122ポンド(55.34kg)
バンタム115〜118ポンド(53.52kg)
S・フライ112〜115ポンド(52.16kg)
フライ108〜112ポンド(50.80kg)
J・フライ105〜108ポンド(48.98kg)
ミニマム105ポンド(47.61kg)以下
左表のように、近代〜現代ボクシングには、非常に細かい体重別階級制がしかれて います。

このことは、とりもなおさずボクシングという競技の「成熟」、近代性をあらわして います。
ほんの数kgの体重差が、それだけで勝敗を決してしまう要因になる ほどに、ボクシング競技におけるその「競技性」は成熟したものになっているのです。
体のデカい者が、小さいものに勝つのは当たり前。あくまでも技量によってのみ 勝敗が決せられるようにするために(そういうタテマエのもと)、ご覧のような 細かな階級が設置されたわけです。

ただ、いくらルールが整備され、その競技性が成熟していったとしても、ボクシング はあくまでも格闘技。
マニア化していない、いわゆるフツーの人たちは、競技者(選手)の体重に関係なく、 「だれが一番強いか」といった部分を単純に指向し、嗜好します。

各階級の中には、それぞれ素晴らしい技量(単に「技術」のみならず、闘志などと いった精神的な要素も含む)の持ち主が沢山います。
しかし、フツーの人が観て、単純に一番面白いのは、これはどうしてもヘビー級。
体重の上限の無いこの階級の王者が、イコール世界一強いボクサーであること、 これはどうしょうも無い事実です。だから一般の人達が一番注目するのが ヘビー級。

・・・しかしながら’80年代前半、世界ボクシング界において、このヘビー級の人気は 近代ボクシング史上最低のレベルにまで落ち込んでいました。

理由は簡単で、’70年代に、あまりにも強烈なキャラクターがいたからです。
’70年代、世界のヘビー級、引いてはボクシング界は全てモハメド・アリ のものでした。
アリの偉大なところはいくらでもありますが、競技者としての特徴はひとつ。それ まで、体重無制限であるという階級の特性から、ヘビー級のボクサーたちはただただ そのパワーに頼る戦いをして来ました。腕っぷしの力にまかせてガチンガチン殴り合う スタイル。
そんなヘビー級の世界にアリは「スピード(主としてフットワークの)」 という概念を初めて持ちこんだのでした。
そして、それまで力まかせに殴り合ってきたヘビー級選手たちを、文字とおり翻弄していきました。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」というやりかたで。

そういうヘビー級における革命家であったアリが去ったあと、残された選手たちは こぞってアリをイミテーションするようになりました。もっというと、アリのコピー がヘビー級市場を席捲してしまった。
だれもイミテーションには関心を示さず、代わって他の階級にキラ星のごときスター たちが続出。かくてボクシングの主流は、競技史上初めて他階級に移ったのでした。

要するにこの時期、ヘビー級は主要なファン達に見捨てられた存在だった のです。
・・・タイソンの出現までの間は。



世界タイトル獲得の年〜現在までの戦歴
'86年
1.11デーブ・ジャコ○TKO1R
1.24マイク・ジェームソン○TKO5R
2.16ジェシー・ファーガソン○TKO6R
3.10スティーブ・ゾースキー○KO3R
5.3ジェームス・ティリス○判定10R
5.20ミッチ・グリーン○判定10R
6.13レジー・グロス○TKO1R
6.28ウィリアム・ホシ−○KO1R
7.11ロレンゾ・ボイド○KO2R
7.26マービス・フレージャー○KO1R
8.17ホセ・リバルタ○TKO10R
9.6アルフォランゾ・ラトリフ○TKO2R
11.22トレバー・バービック
(WBCヘビー級王座獲得)
○TKO2R
'87年
3.7ジェームス・スミス
(WBAヘビー級王座獲得)
○判定12R
5.30ピンクロン・トーマス
(WBA,WBCヘビー級王座防衛)
○TKO6R
8.1トニー・タッカー
(IBFヘビー級王座獲得=王座統一)
○判定12R
10.16タイレル・ビックス
ヘビー級統一王座防衛@
○TKO7R
'88年
1.22ラリー・ホームズ
ヘビー級統一王座防衛A
○KO4R
3.21トニー・タップス
WBA,WBCヘビー級王座防衛
○KO2R
6.27マイケル・スピンクス
ヘビー級統一王座防衛B
○KO1R
'89年
2.25フランク・ブルーノ
ヘビー級統一王座防衛C
○KO5R
7.21カール・ウィリアムズ
ヘビー級統一王座防衛D
○KO1R
'90年
2.10ジェームス・ダグラス
ヘビー級統一王座失う
×KO10R
6.16ヘンリー・ティルマン○KO1R
2.25アレックス・ステュワート○KO1R
'91年
3.18ドノバン・ラドック○KO7R
6.28ドノバン・ラドック○判定12R
'95年
8.19ピーター・マクニーリー○失格1R
12.16バスター・マチスJr○KO3R
'96年
3.16フランク・ブルーノ
WBC世界ヘビー級王座獲得
○KO3R
9.7ブルース・セルドン
ヘビー級統一王座獲得
○KO5R
11.9イベンダー・ホリフィールド
WBAヘビー級王座失う
×KO11R
'97年
6.28イベンダー・ホリフィールド
WBAヘビー級王座挑戦
×失格3R
'99年
1.16フランソワ-ズ・ボタ○KO5R
マイク・タイソンのサクセスストーリーは、まさに「アメリカン・ドリーム」 そのものです。

1966年6月30日、ニューヨークの「危険地帯」で生を受け、いわゆる「素行 不良」な少年時代を送ります。

矯正院に収容されていたときに、教科であったボクシングと出会い、素質を 認められて、伝説のトレーナーといわれていたカス・ダマトにあずけられます。
当時の最年少ヘビー級王座獲得記録保持者フロイド・パターソンを育てるなど、 名伯楽としてすでに名声を手にし、悠悠自適、半ば隠居生活を送っていたカスは、 タイソンの練習をひと目観て、自身の永いキャリアの中でもみたことの無い程の すさまじい才能の豊饒を観た、といいます。

カスはすぐさま、自身の余生をタイソンに賭ける決意をしました。

孤児同然の生活を送ってきていたタイソンも、カスに父性を見出し、かくして タイソンとカス、そしてカス門下のトレーナーケビン・ルーニー による「三人四脚」が始まりました。

数戦のアマチュアでの試合を経て、1985年3月6日、18才で プロデビュー。
デビューの年は、15戦して15勝、全てKO勝ちでした。しかも内11試合が 1ラウンドでのKO。沈滞していたヘビー級シーンに突然現れたKOボーイは、 たちまちマスコミの寵児となりました。

数年の下積みが常識のヘビー級において、タイソン陣営は、早くもキャリア二年目 でバクチに出ます。

(右表参照)

世界ランカーだったスティーブ・ゾースキー、「ポスト アリ」と呼ばれていた (うちのひとりだった)ジェームス“クィック”ティリス、アリのライバルだった ジョー・フレージャーの息子で、「未来のホープ」の一人だった マービス・フレージャー・・・タイソンのデビュー前から、 ヘビー級の数少ないホープ・アイドルだった面々に、キャリア二年目のタイソンが挑戦。
・・・いずれの試合にも、タイソンは楽勝します。

そして、当然のなりゆきとして当時のチャンプトレバー・バービック に挑戦したのが’86年の11月22日。
バービックは、タイソンのパワーと、テクニックと、常識外れのスピードの前に、 フットワークで逃げることも、パンチを出すことも、クリンチすることもできずに、 2ラウンドで昏倒しました。

かくして、あれよあれよという間に、タイソンは最初の世界タイトルを獲得しました。
弱冠20才と5ヶ月。これはもちろん今でもヘビー級の最年少戴冠記録です。

翌年’87年の8月までの間に、タイソンは続けざまに3人の現・元世界チャンプと対戦。
そのいずれにも勝利し、易々とWBA、WBC、IBFの各世界 タイトルを獲得、名実ともにただ一人の「世界最強の男」となったのです。



力まかせに殴り合う、というスタイルが主流だったヘビー級に、「スピード」 という概念を持ちこんだのがモハメド・アリ。
タイソンは、そのスピードに、本来ヘビー級ボクサーのだれもが持っていた 「パワー」をからめることに成功した、(未だに)唯一無二のヘビー級ボクサー です。アリのような、リング内を縦横無尽に廻れるだけのフットワークこそ ありませんでしたが、大げさでなくそれ以外の全てにおいて無類のスピード を体現してみせたのでした。そしてそのいずれにも、これまたボクシング史上 誰も達し得なかったレベルの「パワー」を付随させることに成功したのです。

タイソンにおける「スピード」タイソンにおける「パワー」
その@:開始〜攻撃までのスピード
そのA:攻撃(パンチ)のスピード
そのB:攻撃⇔ディフェンスのスピード
そのC:ディフェンスのスピード
その@:攻撃体制に行くパワー
そのA:攻撃(パンチ)のパワー
そのB:ディフェンスのパワー
そのC:フットワークのパワー(@とも関連)

しかも・・・ここが最もタイソンの偉大な部分なのですが、上の表にした すべてのことが、タイソンの場合必ず連続した、ひとつの動作 として行われるのです。
試合開始のゴングが鳴ると同時に、タイソンは対戦相手まで、その相手に対して 最も安全なルートで、また考えられる最も短い時間で近づきます。
(仮にこの動作を「A」とします。)

そして、最も適切なタイミングで、その時点における最も適切なパンチ種(相手・自分 の体勢などによる)を、最も適切な角度(同)で当てて行きます。
(同「B」

そして場合によっては、相手の反撃に備えて、これもその時点で最も適切な 体勢・体位を取り、同時に、続く攻撃に備えます。
(同「C」
・・・タイソンの試合は、「A」に 始まり、「B」 及び「B」 「C」 がリズミカルに繰り返されていく・・・実はそれだけでしかないのです。
ただ、その「繰り返し」が、世の中の誰も崩せないほど強固かつ精密に 組み立てられていた、というわけ。
そのことが最も完璧に、かつ分かりやすく現されていたのが、1988年 3月21日に東京ドームで行われた対トニー・タップス戦でした (と管理人は私的に考えています)。
@相手の目測を狂わせるために激しく上体を振りながら、同じ理由でジグザグな軌道を 描いていち早くタップスまで近づき、すばやく懐に飛びこむ。(「A」

A相手の懐から、右フックをボディに。(「B」

B(タイソンの思惑通りに)思わず前屈みになり、ガードの下がったタップスに、 右アッパーを。(さらなる「B」

Cアッパーの反動で反ったタップスに、「詰め」を与えるべく、前進。(またさらなる「B」
(実際にはBで試合が終わってしまった)
・・・この「B」及び「B」 「C」の組み立てを、あれほどの 完成度で実現するには、想像を絶する努力が、超人的な意思力によって継続 される必要があります。こんなことが、とても一人の人間の意思だけで 行われるはずがない。
このことは、カスも、ケビンも、そしておそらくはタイソン自身も自覚していた はず。だからこそ、この3人による「三人四脚」が実現したのだし、逆にいえば、 この3人の結束が無ければ、タイソンにおいてあれほどの「完成度」は望めなかった わけです。



タイソンのファイトに、初めて微妙な「狂い」が見えはじめたのは、’89年2月25日に 行われたフランク・ブルーノとの一戦でした。
当時、「英国の誇り」とまで言われた実力者のブルーノでしたが、打たれ弱さがあり、 なんにしてもタイソンの敵ではないと思われていました。事実、試合は5Rで タイソンがKOするのですが、不用意に右フックを大振りしたタイソンのアゴに、 ブルーノの右がクリーンヒット、一瞬タイソンの腰が落ちかける、といったシーン が観られました。

不用意に右フックを大振りする、などということは、並のボクサーならともかく、 それまでのタイソンには考えられないこと。

続くカール・ウィリアムズとの防衛戦があまりにも短時間で 終わったため、ブルーノ戦でのわずかな、しかしそれまでのタイソンには考えられない ミスのことは忘れられてしまいました。

しかし、タイソン及びタイソンチームの中に芽生えていた、タイソンがタイソンで あることを保つためには致命的な誤差。

カスはすでに亡くなっていました。そしてトレーナーのケビン〜カス亡き後唯一 タイソンを「叱る」ことの出来た人物〜も、タイソンの生む利益にのみ関心のある 「とりまき」たちによって引き離されました。
3人の完璧なトライアングルによって構築され、進化していたタイソンのボクシング。
それが、その一角どころか全てを、このときタイソンは一気に失ってしまっていたのでした。

・・・やがて、ブルーノ戦で、ほんの一瞬だけ顔を見せ、その後は姿を隠していたその誤差が、 とうとう本格的に露呈してしまう時がやってきました。

’90年。タイソン及びその取り巻きが、スーパースター・タイソンのプロモーション のために来日。ついでに試合でもやって、プロモーションの閉めにでもしようか、 といったノリで2月16日、東京ドームのスケジュールが押さえられました。

ゲンのいいニホンでのプロモは必ず成功させなくてはならない。そして衛星放送の 放送権料を少しでも釣上げたい。そのためには、タイソンが華々しく勝つところを ニホン人たちに見せ付ける必要がある。しかし前回の来日時のようにあまりにも 早く終わっちゃうと、ニホンのTV局のスポンサーが嫌う=ワレワレ(タイソン側) の見入りが減る可能性がある。・・・

適当に長持ちして、しかしタイソンに危険を与える可能性が殆ど無い選手。そういう 「ふるい」に残ったのが、フットワークがあり(2〜3Rくらいは逃げられる)、しかし パンチ力がなく、打たれ弱さがある(華々しく倒れてくれる) ジェームス“バスター”ダグラスでした。



ダグラスとの試合、タイソンは別人でした。

ガードは不用意に下がり、相手の左ストレートをかわすための上体の振りもなく、 ただただ愚直にダグラスの前に立つ。そして、なんの準備もなくただやみくも に放つ左右フックは、屈辱的なまでに虚しく空を切りました。
いずれも、攻撃と防御の一体化を目指し、実現させてきたカスとケビンのいた時代 のタイソンには考えられない所作。そして10R、殆どなにも出来ないまま、 タイソンは力尽きてマットに落ちました。

遠のく意識下で、マウスピースを口にねじ込む姿は、それまでのタイソンの対戦相手 同様、この上なく無残なものでした。

’80年代最後の年に、タイソンの「神話」が崩壊したのです。



’90年代に入って、タイソンのスタイルはいつのまにか一変していました。

スピード・切れのある、攻防の一体化したかつてのスタイルは、カスとケビンとの 「三人四脚」によってしか実現できない。このことをタイソン自身が納得したように 思われます。

普通の・・・凡庸なコーチスタッフたちにより、至極当たり前のブルファイト・スタイルが タイソンに唯一の選択肢として与えられました。
タイソンも素直に「至極当たり前のブルファイト・スタイル」を今後の自分のスタイル として選択し、「単なるブルファイター」として、不器用に、バタバタと相手に突進し、元々持っていた パワーで強引に相手をねじ伏せていきました。

そんな闘い方で、改めて「無敵」と呼ばれるところまで戻ってきたタイソンは、やはり 天才なのでしょう。’96年、ニュー・タイソンはいつのまにか世界チャンプの座に 戻ってきました。
しかし、’80年代のタイソンなら15分(=5ラウンド)もあればケリが付けられた であろうイベンダー・ホリフィールドに敗退、リターンマッチ では、あの「耳かじり事件」。・・・

残念ながら・・・本当に残念ながら、’90年代終盤になって、タイソンのボクサー としてのキャリアは、本人の意思とは無関係に終焉を迎えることになりました。



思えばカスとケビンは、タイソンの精神的な支柱でもあったのです。

タイソンの生家には大きな鳩小屋があって、幼いタイソンは、他のスラムの全ての 子と同様な粗暴な面を持つ反面、その中で静かに過ごすことをこよなく愛する、 感受性の強い少年だったそうです。

’80年代は、ボクサー・タイソンにとって最良の時代でした。

しかし同時に、Michael Gerald Kirkpatrick Tyson(本名)にとっては、決して 失ってはならないものを失ってしまった時代なのでした。

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