忠臣蔵あれこれ。

まもなく討ち入り、忠臣蔵の「時期」です。この忠臣蔵には個人的にアレコレ思い入れetcありまして。


あれはもう15年以上前、当時オレはCATVにて墨田区内の地域情報番組制作の制作を受け持ってまして、その時のネタが忠臣蔵関係。ちょうどこの頃赤穂市と吉良町が当時の墨田区長の仲立ち?でもって「手打ち」、友好都市となった、みたいな話があり、これをニュースのネタとすべく取材したんです。
2min尺ほどの小特集だったんですが、その時の原稿で“映画「蒲田行進曲」などでも題材に採られる忠臣蔵”とやらかしまして・・・当時このCATV局は開局したてで恐らく視聴者も3~400世帯くらいしかいなかったと思われ、ゆえに幸いにも視聴者からのクレームetcも無くとりあえずホッとしたんですが、放送を観たオレはなにしろキモを冷やしました。今でもあの時のショックは明晰に覚えておりますよ。“マズい!、あれは新撰組だった!”と。いやはや。
そんなバカ丸出しの事柄には関係なく、とにかく我が地元周辺には忠臣蔵関係のエピソードが満載です。
隅田川にかかる永代橋のたもとには、義士達が討ち入り後に立ち寄って甘酒だかなんだかの接待を受けたという場所があります。
この場所には「赤穂浪士休息の碑」というのが建ってます。甘酒呑んだってくらいで碑が建っちゃうんだからさすがは浪士の「威光」。しかし饗応を受けてる最中も、浪士達の傍らに有ったろう槍の先っぽには吉良上野介の生首がぶら下ってたわけで、よく甘酒なんか呑んだり呑ませたり出来たもんだと思います。
甘酒よりもなによりも、墨田区の本所地区には、まさに「討ち入り」の現場であった吉良上野介の屋敷跡があります。本所松坂町公園という名で・・・公園といいつつ遊具などは無く、吉良上野介供養碑や、吉良公の首を洗ったとされる井戸などが残っています。
吉良は元々江戸城にほど近い鍛冶橋や呉服橋に邸を構えており、件の刃傷沙汰の後程なくこの本所に移っています。
当時のこの辺りは辺鄙なところだったそうなので、要するに責任の所在に関係なく、ケチのついたヤツに要職を任せるのを幕府が嫌った、ってことなのかな、と思います。
で、彼はその後に討ち入りで斬首され、以来いわばテロ被害者であるにも関わらずコンニチまで忠臣蔵の映画etcではいかにもな悪役として採り上げられ、なんだかロクな扱いをされていない。
上野介は領民には名君として崇められていたそうなので、なんだか可愛そうです。
浪士らはここから回向院に寄り、そこで締め出しを喰ってそのまま最寄の両国橋でなく永代橋を経由して高輪の泉岳寺に向かったわけですが、考えてみたらすげー距離です。高輪まで歩く気にはなりませんが、まぁ当時はそれしか手段が無いんだからしょうがない。
ちなみに、討ち入り前に浪士らが集ったとされる堀部安兵衛宅は現在の墨田区立川にあったのですが、今当地は普通の民家のようです。碑なども見つけられず・・・よく探せばあるのかもしれませんが。
浅野内匠頭の切腹後、赤穂では討ち入りすべしという急進派と、このままおとなしく赤穂城を明け渡そうという穏健派の2派があったそうで、堀部は前者の前衛だった由。家老の大石内蔵助は当初は後者、その後に改めてお家再建を目指そうという姿勢で、同時にこの2派の融和に向けて動いていた節もありますが、いろいろあって結局討ち入りと相成った次第。「いろいろ」っていったい何があったんだ?と思いますが、調べてみますとホントに政治的にもいろいろあったようで、もはや半ばカオスだったりしたようです。
また浪士らは事後ほど無く切腹と相成ったわけですが、幕府内にも彼らの処遇についても、打首獄門にすべし、また忠君の徒として助命すべし、などなど様々な意見が交錯していた由。結局切腹になったのにもこれまた「いろいろ」な思惑等あったようです。
そもそも松之廊下での刃傷沙汰は、天皇の勅使の饗応という幕府にとって重要な儀式の下準備中、というトンでもないタイミングで起こった事件なので、この件及び「討ち入り」についての対応で幕府が非常にナーバスになったろうことは想像に難くありません。
・・・っていうかですね、オレは前々からギモンなのですが、そもそも浅野内匠頭は、なんでまたこんなタイミングでこんなことしたんだろうか???
かつて調べたこともあるんですが、この「犯行」の動機には諸説ありまして、吉良が浅野からの賄賂のセコさが不愉快でイジメてたとか、中には「浅野内匠頭=キ○○イ」説なんてのもあったりします。
要するに動機が全くわからんのですね。江戸城内で刀を抜くってだけで大問題なのに、天皇の勅使を向かえるという重要な時になんでこんなことをやらかしたのか。浅野内匠頭自身は事後“個人的な怨恨のため”と言ってたようですが、大名ともあろう身分の人間が、そんな理由で、こんな場所で、さらにこんなタイミングで、どうしてこんなことしたんだろうか。フシギというかなんというか。
いつだかのA新聞に、この浪士らはいわばテロリストであって、忠臣蔵などで彼らを美化するのは思想としては健全では無いとかなんとか、当時と現代の価値観の差異などを無視した、そういう意味では殆ど無意味なコラムが載ってました。
百歩譲って、テロリストだってのは考えてみりゃその通りなので同意ですが・・・なんちゅうか、ねぇ。

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