見失った人たち。

「永田町の首相官邸前で22日、関西電力大飯原発の再稼働撤回を政府に求める抗議行動」だそうです。要するに「デモ」です。
毎日新聞によると、
「主催者によると約4万5000人、警視庁によると約1万1000人が参加。周辺の歩道を埋め尽くした人が「再稼働反対」と、約2時間にわたって声を上げた。」
とのことです。

これに対し(ってこれに限らないけど)、「本気で原発が止められると思ってデモしてるヤツがどれだけいるんだろう」というような主旨の発言をいくつか目にしましたが、それを言っちゃぁおしまいよ、であります。

振返ってみると、’60年代の全学連、’70年代の全共闘、そして’90年代の「オウム」の人らも、本気で革命なりを起こせると思ってた人は実はさほど多くないんですよね。

学生運動においては一種の「祭り」、オウムにおいては同じく「行きがかり上」でコトが行われてたりしたようです。

必ずしも全員が「革命」なりを純粋に信じきってた、ってわけでもないらしいです。

ただそんな中において、ごく一部のアタマのオカしい一群が本気で信じてしまい、現実とのギャップの反動でもって暴走する、というのが、これらのひとつのパターンだったりするようです。

共産主義革命を本気で目指しちゃった若者の一部は、最終的に「あさま山荘」において単なる凶悪犯に成り下がり&残党は未だにパレスチナ(の支援は
実は既に失ってるという報道もありましたが)あたりでもって何やかやしてる状況がありますし、「オウム」はそのギャップを受け止められず、「ヴァジラヤー
ナ」という名のもとにサリン撒いたりなどし、さらに驚いたことに「残党」が未だに麻原の誕生日に「教祖聖誕祭」なんてなことで集ったりしてる由です。

「祭り」の締め方を見失った、若しくは「行きがかり上」という行動様式から脱却する術を見失った一群です。

いうまでもなく、福島第一原発の事故のかなり以前から、「反原発」というのは上記と同種、一種のイデオロギーであり、同時に非常に「宗教」的だったりする(でしかない)わけですが、この事故を契機にそれが先鋭化してきている感じがあります。

ってことはですね、歴史上の先例に倣うと、もしかしたら今最も恐れるべきは「反原発」な人たちの暴走、なのかもしれませんよ。

そういや先月だったか、瓦礫輸送トラックの下に妊婦が潜り込んで進行を妨げた、なんていう「妨害工作」が報じられてましたね。

こういうのは、もう立派な「暴走」ですよね。どう考えてもコンセンサスが得られない方法論なわけですが、客観的な視点を欠いてしまってるという意味でも、もはや先鋭化した一部は単なる暴徒でしかなくなってるように思えます。

ああ、デモはいいですよ。OKです。意思表示の為の方法論として決して侮れないものだとオレも思います。ガンガンやっていいんじゃないか、とかオレは思ってたりしますよ。

でも、とにかく「暴走」しないで頂きたい。本来の主旨を見失わないで頂きたいものです。

‘70年代の学生運動においても、学生側の主張はある時期まではかなり正当なもので、故にその運動は一般市民レベルにも結構評価されてたりしたそうです。

ただ、日大芸術学部(オレの母校ですが)での「闘争」の際、デモetcの鎮圧に当たった体育会学生に対し、ハダカにしたうえ針金で後ろ手に縛り、
その上で指の骨を折り、「市中引き回し」にした、なんてことがあったそうで、そんな辺りからコンセンサスを失い始め・・・という次第だったそうです。これ
などがまさに以降に連なる「暴走」の始まり、だとか言われてます。

「オウム」も、1990年年の衆議院選挙での大惨敗以前までは、メディアの扱いも「ちょっとユニークな新興宗教」ってだけのモノで、実際教団内もそれ以降に比べれば和気藹々とした雰囲気だった由です。

「あさま山荘」や「地下鉄サリン」みたいなことが起こらなきゃいいなぁ・・・とオレは思っています。

わりとマジで。

※原発の是非や、いわゆる「放射能」の現状については、あえて除けての上記です。

※ちなみに、オレはぶっちゃけた話、どちらかといえば「反原発」です。

っていうか、あんな事故を「体験」して、それでもなお「原発推進」ってのは、ちょっとありえないよな、という感じです。

ただ、その主張が、単なる「イデオロギー」若しくは宗教的感性の部分で止まってしまってはイカン、と。こういうのは「思考停止」であって、なにも生み出さないんじゃないですかね、という次第です。