「儀式」と改元など。

今日は編集の後、約6時間に渡って某動画サイトでもって昭和天皇大喪の礼のもようを延々と見ておりました。
長いこと延々と見続けてると「儀式」というモノそのものがゲシュタルト崩壊する感じがあります。そもそも「儀式」とはなんなのか、なんのためにするのか、よくわからんようになります。

冠婚葬祭も入学式卒業式の類も、機能面だけでいえばペーパー1枚のお知らせで事足りるところ、我々は節目節目になにゆえか「儀式」を以て締め、区切りとします。

昭和天皇崩御のことでいうと、考えてみれば当時巷に溢れかえった様々な「自粛」、これもどこか儀式的でありました。国家的なそれは具体的な形でもって行われたのに対し、この「自粛という体裁での儀式」は、市井において自発的に、そして無意識的に粛々と執り行われた、と。
やっておかないとなんかマズい気がする、座りが悪い、みたいな感覚があったとすれば、それは間違いなく「儀式」でしたね、思うに。

区切り・節目といえば、天皇崩御⇒新元号制定というようなものはこれ以上ない大きな節目ではありましょう。近代国家としてそうでなきゃオカシい、てかマズかろうと思う。
してみると、昭和という時代に落とし前をつけるには、あのレベルでの「自粛」が必要だったのかもな、などと思う次第です。

以上、平成生まれみたいな方には恐らく夢想も出来ないであろうことについて、でした。
もう寝る。

「令和」に当たって。

そういえば平成元年1月8日も朝から雨だった気がします@東京。昭和天皇の葬送列が雨中を進むようすをブラウン管テレビで観ていたように思います。

「令和」の瞬間も東京は雨模様です。つまりあたりまえですが新天皇のおわします宮城も雨。恵みの雨の中で我々は新元号を受け入れ、新陛下をお迎えすることと相成ったわけですね。それもまたよし、であります。 

平らかに成るという意による「平成」は、その名の通りの「何も無かった時代」とはなりませんでしたが、それでも概ねヘイワな時代だったとは思えます。令和もその名の通り麗しい時代となって欲しいものです。 令和の世も弊社はたいらけくやすらけく在りたいと思います。引き続きどうか宜しくお願い致します。