成人の日。

オレ自身は成人式には行きませんでした。記憶は定かではありませんが確か未明までサタデーナイトショーとオールナイトフジを観てたせいで寝坊した次第です。

起床は昼過ぎでした。当時外廊下に面していたオレの寝室の窓をカツカツと叩く音が聞こえまして、それで起床。
ノソノソ起きて窓を開けたら、スーツ姿の中学時代の友人Oくんがおりました。

成人式帰りかと思ったらさにあらずで、聞くと行ったけど会場がいっぱいで入れてもらえなかったんだ、と。
締め出されたけど行くアテもなく、仕方ないからオレん家に来た、ってわけです。
ティアラこうとうがいっぱいになる程新成人がいたんですねぇ当時は。昨今では役所の担当部署が人集めに腐心してる由。少子化なんだなぁ、と実感します。

明日っていうか今日は成人の日。なんやかやで成人式は江東区では行われないみたいです。振袖などを揃えてこの日を心待ちにしてた方も多かったでしょうに。なにより親御さんの落胆を想います。

まぁ振袖着る機会はまたありますよ。年末に観たテレビ東京「年忘れ日本の歌」では、こまどり姉妹のお二人が振袖来て歌ってましたよ。御年82歳かな。結構な絵面ではありましたが、いつなんどきも着たらアカンってな法は無いのです。

あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。今年も変わらぬご愛顧の程どうか宜しくお願い致します。

あれはサラリーマン時代、それもペーペーの新人の頃ですからもう20有余年も前になりますか、いきなりある屋外イベントの進行&収録を振られたことがありました。

その年は梅雨明け宣言は出たものの連日雨、それも驟雨続きで、事前段取りも思うようにいかず、苛々は募るばかり。焦燥でホトホト疲れ切ったものです。
屋外イベントですのでケーブルは雨が止むまで引けないし、舞台音声はどうするんだ、出演者は屋根のあるとこに待機させなきゃ、だとかなんとか、やらなきゃならんこと・決めなきゃいけないことはいっぱいあるのに、なにもかも雨でストップしてまってしまってどうにもならん、という。

その日も雨でなにも出来ず、仕方ないのでスタジオの中でボーッとしておりました。
スタジオの中にはやはりなんにも出来ずにボケッとスタジオモニターに映るサッカー中継など眺めてる先輩方。
雨、いつ止みますかねぇ、などと取り留めもなく話しかけましたら、その先輩、

ま ぁ 、 今 ま で 止 ま な か っ た 雨 は 無 い な 。

ああそうか、止まない雨は無いんだな。
この雨もいつかは止むんだ。
止んだらまた歩き出せばいいんだ。

……と、状況は何も変わってないのにも関わらず、なぜだかこの先輩の言葉に救われた気がして、スッと気持ちが楽になったのを覚えています。

たちかえって今般の我が国は正に長雨のさなかです。

タチが悪いのは、いまひとつ止む時期が見通せない、というところ。

でも、止まない雨はありません。この雨もいつかは止むのです。
止んだらまた歩き出しましょう。

上記した「屋外イベントの進行&収録」云々の話は丸々作り話で、新人時代どころか令和三年元日の段階でそんな案件をやったことはただの一度もありませんし、あらゆる「先輩」にこんなことを言われたことも一切無いし、そもそも雨でなんにもできないならトットと帰るに決まってるわけで、とにかく全部ウソ話なのですが、とりあえず「止まない雨は無い」ってのは真だと思います。

センバツ高校野球がなんか知らんけど中止になった件について。

選抜高校野球中止ってマジですか。無観客開催ってんじゃなくて?
 
あくまでも私的には、ですが、中止は正直どうかと思うのです。相撲に比べても選手間での感染が成立しにくい競技だと思うのですよ野球って。まして甲子園は屋外だしね。無観客開催が難しいっていう事情がなにかあるんでしょうかね。
 
何でもかんでも中止にすりゃいいってもんでもないと思う。できること・やれることはむしろ積極的にやっていいでしょう。てかやるべきだ、と。こういう腰の引け方がなにより経済をダメにします。引かなくて良い腰は引いたらいけません。
  
フンドシ一丁で組み合う大相撲はやってるじゃないですか。開催のために相撲協会はすさまじい厳戒態勢で万全を期してますよ。そしてそれが高評価を得ています。
なぜか。
それが「腰の引けた対応」じゃないからですよ。
 
大相撲の本場所が開催出来て、屋外で、基本的に選手の接触を前提としていない、ある程度選手間の距離が保てる高校野球がどうしてやれないのか。なにやってんの高野連。てか朝日と毎日。
 
やれることからやりましょう。てかやれることはやらなきゃダメです。センバツは「やれること」だと思う。

見る人が見れば、な話。

ひょんなことで知り合った某所のスナックだかクラブだかよくわからない店のママさんいわく、その客がヤクザかそうでないかってのは、ほぼ一瞬でわかるんだそうですね。どんな服装でどんなヘアスタイルetcでどんな腕時計をしてようと、大げさでなく入口ドアが開いた瞬間にわかるんだと。
なんでわかるのかと聞くと、やっぱしそういう空気というか雰囲気があるとしか言えない、とのことでした。
 
これはオレがヤクザでないからヤクザを例にとってそんな話をしてくれたってだけで、要はどんなに取り繕っても、見る人が見ればその生き方生業etcが丸わかり、バレバレだってことですね。
 
今年はちゃんとしようと思います。
そして、その「見る人」としての目も肥やしたいと思います。

レバノン。

20年ほど前になりますが、1,000人斬りを達成したって自慢してるオッチャンに会ったことがあります。取材後の雑談で結構長時間に渡って、要するに自慢話を聴かされたという。

最高だったのは白系ロシア人なのだそうで、じゃあ最悪なのは?と聞きましたら、そりゃもうレバノン、とにかくレバノンは最悪だった、と即答。

「呼ぶ女呼ぶ女、どいつもこいつも一人残らず「渡辺二郎」なんだよ」

とのことでした。
ご存命ならもう100歳になっておられると思うのですが、どうしてるかな。いかにも昭和的な自慢話です。こちらがドン引きしてるのもお構いなし。
ただ、渡辺二郎みたいな女ってどんなんかな、というところがちょっと気になるというかなんというか。

そんなレバノンにゴーンさんはいるんだな、と、ちょっと思い出した次第です。

終戦記念日。

8月15日になりました。今日は終戦記念日です。

昭和20年の今日という日を迎えるまで、弊社のある東京は下町の皆さんは、低空飛行してくる戦闘機の窓から放たれる機関銃の弾丸に怯える日々が続いていた由。

そんな状況、環境、想像するのも苦痛ですが、これは想像しなければいけません。
そして、その上で自問しなければなりません。またそんな目に遭ったり遭わせたりしたいか?と。これは今を生きる国民の義務だと思う次第です。

弊社はNOなので、反戦です。右も左もハチのアタマもありません。

「儀式」と改元など。

今日は編集の後、約6時間に渡って某動画サイトでもって昭和天皇大喪の礼のもようを延々と見ておりました。
長いこと延々と見続けてると「儀式」というモノそのものがゲシュタルト崩壊する感じがあります。そもそも「儀式」とはなんなのか、なんのためにするのか、よくわからんようになります。

冠婚葬祭も入学式卒業式の類も、機能面だけでいえばペーパー1枚のお知らせで事足りるところ、我々は節目節目になにゆえか「儀式」を以て締め、区切りとします。

昭和天皇崩御のことでいうと、考えてみれば当時巷に溢れかえった様々な「自粛」、これもどこか儀式的でありました。国家的なそれは具体的な形でもって行われたのに対し、この「自粛という体裁での儀式」は、市井において自発的に、そして無意識的に粛々と執り行われた、と。
やっておかないとなんかマズい気がする、座りが悪い、みたいな感覚があったとすれば、それは間違いなく「儀式」でしたね、思うに。

区切り・節目といえば、天皇崩御⇒新元号制定というようなものはこれ以上ない大きな節目ではありましょう。近代国家としてそうでなきゃオカシい、てかマズかろうと思う。
してみると、昭和という時代に落とし前をつけるには、あのレベルでの「自粛」が必要だったのかもな、などと思う次第です。

以上、平成生まれみたいな方には恐らく夢想も出来ないであろうことについて、でした。
もう寝る。

「令和」に当たって。

そういえば平成元年1月8日も朝から雨だった気がします@東京。昭和天皇の葬送列が雨中を進むようすをブラウン管テレビで観ていたように思います。

「令和」の瞬間も東京は雨模様です。つまりあたりまえですが新天皇のおわします宮城も雨。恵みの雨の中で我々は新元号を受け入れ、新陛下をお迎えすることと相成ったわけですね。それもまたよし、であります。 

平らかに成るという意による「平成」は、その名の通りの「何も無かった時代」とはなりませんでしたが、それでも概ねヘイワな時代だったとは思えます。令和もその名の通り麗しい時代となって欲しいものです。 令和の世も弊社はたいらけくやすらけく在りたいと思います。引き続きどうか宜しくお願い致します。

またオリンピックについて。

特にフィギュアみたいな採点競技においては・・・いや他全ての競技においても、とにかくメダルを期待したり、それに重圧を感じたりっていうのは、五輪においては全く持ってバカバカしい、ほぼ無意味な所業です。こないだも書いたように五輪の審判ってのはしたり顔してるだけのワケワカラン奴がやってんだから、そんなラカラの採点なんかなんの意味も無いのです。
過度な期待がダメだってんじゃないです。「期待」そのものが有る意味罪なんじゃないかと思うのです。
 
こないだ、ボクシング競技で韓国の辺丁一選手がオレでもわかるバカ丸出しの判定でもってメダルを逸し、その結果を不服としてジャッジをブン殴って乱闘になった話を書きましたが、クドいようですがこういう事案というのはボクシング競技に限ったことでは無く、要するに夏だろうが冬だろうが、ロス大会以降の五輪というのはもはや単なるイベントであって、純粋なスポーツ競技会では無いのです。盛り上がればなんでもアリなんです=より盛り上がるヤツがそれとなく勝つんです往々にして。
「純粋なスポーツ競技会」だったらあんな判定やらかしたジャッジは永久追放モンです。ただそもそもこの時のジャッジはボクシング畑の人じゃ無かった(!)わけなので、永久追放されても痛くもカユくも無いんですよね。これがオカシな話じゃなくてなんなんだ、というね。
(なお、これまたクドいようですが、だからって審判をブン殴って良いってことじゃないです念の為。)

逆に言うと五輪ってものが事程左様な国際的な一大イベントであるのは事実なので、それが純粋なスポーツ競技会で無い以上、やれ国策であるとか、実力者のフトコロであるとか、「純粋なスポーツ競技会」だった場合には余分なものである事柄がより重視されるのもこれまた必然で、そういう意味で選手らは、これはもう被害者、当人及び周辺の方々にしてみりゃいいメイワクだろうと思う次第です。意識してるかどうかはともかく。

またまた逆に言うと、「純粋なスポーツ競技会」であった場合には余分である事柄、上記で言うとフトコロ云々はともかく、一例として、まず国策としての有用性ってのは厳然とあるわけです。いろんな事情でもって、デカいイベントを一発ブチ上げたい国ってのはあるわけですね。近しい国でいうと、80年代のソウル、ミレニアム以降の北京にはそういう「需要」があったってわけですね。

じゃあ、2020年に、東京でその大イベントをやる必然性ってのはどうなのか、というね。
少なくとも具体的な根拠は見当たらないですね。どっちかっていうとやったほうがマシになる気がする、みたいな、極めて抽象的な根拠しかオレには見えない。
要するに2020年東京五輪ってのは、これはある意味バクチなんですね。やったほうがマシになる気がするけど、やんなきゃよかった、ってな結果になるかもしれない。ツボを開けてみないと丁半はわからんのです。
1964年の東京五輪にはかなり具体的なメリットやメソッドが想定されてたはずですが、今度のはよりギャンブル性が高いように思うんですね。

今さらなようですが、イベントだからダメだって言ってんじゃないですよ。デカいイベントってのは心躍るものです。心躍って悪いことはあんまり無いですよ。
だから、2020年は盛大にブチ上げて欲しいと思う次第です。やることになった以上オレとしては「成功」に張りたいと思う。
でも、だからって、たかがイベントごとで、選手やチームをゲヒンな持ち上げ方したりそうかと思えば落としたりなどして弄んじゃいけません。

アルバムの件。

学校の「卒業アルバム」って何のためにあるのでしょうか。言われてみればオレの周辺で、小・中・高校の卒業後にアルバムや文集を改めてひもといた、なんて話を聞いたことがありません。オレも昨日だいたい30年ぶりくらいに中学のアルバムを開きました。
昔は卒業生全員の住所に電話番号が載ってたりしましたので、それをまとめてデータベース屋やブルセラショップに売っちゃうやつがいた由。でも昨今じゃそういう個人情報は載らなくなったと聞きます。こりゃいよいよもって納戸の肥やしでしかなくなってんじゃなかろうか、と。

昨今じゃみんなスマホやらチェキやらで学内でも日常的に写真撮りまくりで、それらは直ちに安価もしくは無料のストレージに保存されるか、都度ヨドバシやら55ステーションあたりでプリントアウトされて保存されるのが常だそうです。
オフィシャル?な卒業集合写真も間違いなく2L版とかで全員に配られる由。そうなると改めてのアルバムの必要性はもはやゼロなんじゃないかと思うのですが、その辺どうなんでしょうか。

個人的には、ある種の「〆(締め)」として有って良いんじゃないかとも思えるのですが、なんとなくそんなオレは少数派な気もします。