事件・事故

コロナなどいろいろ。

今日も今日とて実在してるかどうかもわからない方々から大量の「友達申請」が届いています。さすがのオレサマも逐一の「承認」作業に疲れました。オレが悪かったです。どうかもうご容赦いただきたい。

こないだ新型コロナに関してちょっと目にした記事ですが、小学5年生だかの男の子と映画鑑賞に行ったお母さん、ノーマスクで行ったら館の係員に注意され、ウチはなにがどうあってもマスクはしないさせない、ってことですったもんだが発生、その末に男の子が、お母さんもういいよマスクしようよ、と泣いてしまい、それに対して、

“ウチの子を泣かせたマスク強要社会を私は許さない!”

と憤慨、という。

似たような話が東日本大震災のときにもありました。こちらは、学校給食は放射能汚染されてるからウチの子だけは給食拒否、持参の弁当以外食べさせない!とやってたら、ある日小学生の娘が、どうして私だけ給食食べたらダメなの?私もみんなと一緒に食べたい!と泣きながら帰宅、そんな我が子にお母さんは、

“ごめんね、あなたを守ってあげられるのはお母さんだけなのよ”

と。

こういうのは悲しく切ないですね。悪意がどこにも存在せず介在せず、しかし確実にどこか間違っていて、且つ確実に本来最も守られなければならない弱者が泣くことになる、という。

黒澤「生きものの記録」のジィさんもこんな感じっちゃそうでしたので、要するに昔々からのテーマなわけですね。

こういうのはおしなべて「死の恐怖」に起因することです。とどのつまりは全てその問題。目前に迫る具体的な「死」に対するリアクションとして、これはきっと正しいものです。丸腰で相対するときっとみんなこうなる。人間とはきっとそういうものなのです。ガタガタいわんとマスクすりゃいいじゃんか・食べればいいじゃんか、とすぐに思ってしまうオレなどよりずっと人間らしい人間なんだと思う。

人生とは全て死に至る旅で、それを憂鬱なものでなくするために、我々には「気晴らし」を見つけて目を逸らす以外の選択肢は無い、とパスカルは「パンセ」に書いてます。

まぁそういうもんです。世の中にはいろいろありますが、取り急ぎオレには世の中のそういうことより、今日の雨に対して傘が無いことの方が問題だ、と。人生の達人とはすなわち気晴らしの達人である、というわけですね。

50歳を超えると、さながら灰汁のようにさまざまな気晴らしテクニックが身に付くものです。

鉄壁のそれを身につけたいと思います。

沖縄と、都下の件について。

オレが平和で幸福な旅をしている最中、沖縄と都下とで悪魔的キチガイがそのキチガイっぷりを発揮して蛮行に及んだ由。よっぽどのことが無きゃ「殺す」って とこまでなかなか至らないものですが、この2匹のキチガイの場合、それは沖縄では「性欲」、都下では大きく言えば「嫉妬」ってなことになるのでしょうか。 いずれにしてもまずその矛先狂ってるな、と。

都下の件では、被害者の方は今現在で「危篤」と報ぜられています。できるならば、元通りに戻ってほしいと思います。肉体的にも精神的にも。
…しかしまぁ、ちょっと前にAKBの娘が似たような被害に遭ったばかりです。このことから運営側はなにも学習しなかったのですね。
そもそも握手会ありきのアイドルなんてのが本道であるはずが無いのです。舞台と客席、テレビの向こう側とこっち側、という具合に、超えられぬ敷居が存在し て初めて「芸能人」なはずです。握手やら「手渡し」やらが常態化したらその瞬間に「ファン」と「芸能人」という関係性は瓦解します。偶像ってのは手の届か ないところにいるからそれでいられるのですよ。
そんなことは恐らく百も承知なはずの運営側、それをあえて無視して、より安直に儲けようとガンバっちゃったわけですね。
この方らもキチガイですね。

沖縄の件…昔、在沖海兵隊員の黒人×2人とよく遊んだ時期がありました。こいつらはまごうかたなきアホでしたが、善良なアホでした。一人はいっときホームシックで大変だったっけなそういや。
なにしろこの善良なアホ2人、沖縄で米兵がなんかやらかす度に “ひとりバカが出てくると、オレらもみんな同類だと思われる。まぁ思われても仕方ないのだけど、やっぱしそれはつらいことだ” とよく言ってたものです。

…そう。ひとりがなにかやらかすと、みんな同類だと思っちゃうのですよ。それは仕方のないことです。諦念を以てそう思う次第です。

都下の件によって、アイドルオタクの人はこれからしばらくは肩身の狭い思いをすることになるのでしょう。「しばらく」で済めばいいですが。

沖縄の件では、基地反対の意見がまた盛り上がるでしょう。あったりまえで、オレだって沖縄に住んでたら皮膚感覚でそう考えるに違いありません。同胞がレイ プされて殺されてんのに怒らず悲しまない日本人はいません。とうとう大統領までが哀悼の意を表明、なんて記事がありました。タダごとじゃ無いって証明です が、だからって被害者は戻ってこない。

あと、キチガイキチガイと連呼しましたが、なにより恐ろしいのは、もしかしたらこの2匹が「キチガイ」でないかもしれない、ということです。正常な判断力の持ち主がこういう蛮行に及べてしまうとしたら、それが一番怖い。
できればキチガイであってほしい、と思う次第です。オレなどと同質同類な「人間」であってほしくない。

改めて「死刑」について。

山口県光市の母子殺害事件、明日、2012年2月20日に、差し戻し上告審判決、な由です。

以前も書いた気がしますが、「死刑」については、オレ的には揺れる部分があります。全面的な否定も肯定もできません。

まず、人間が人間を裁くに当たって、「死」がその選択肢に在って良いものだろうか、という疑念?が拭えません。

ただ反面、大抵の・・・ほぼ全ての「死刑囚」に対して、こいつはもう殺しても飽き足らない、と思えてしまうのもホントです。死刑囚のほぼ全員は例外無くそのレベルの「重罪人」です。ぶっちゃけてしまうと、オレの中でこの件の「犯人」はその極北です。

・人間が人間を殺すことが肯定されていいのか

・でも、殺されても仕方ないようなことしたヤツだからね

・大体にして、死を以って償うということにそもそも意味があるか否か?そいつが死ねば

 OKなのか?

・じゃあ、生かしてどうするってんんだ?

・・・こんな感じです。

なにしろ、千路に乱れる我が心情、だったりします。

ただねぇ、死刑を望む・・・他人の死を希望する、という発想ね。

こういうマインドが人間の心中に実存する限り、死刑判決を受けちゃうような大罪を犯す人間も必ず存在する・未来永劫いなくならないんじゃないか、と思ったりします。

少なくとも「こんなヤツは死刑だ!ペッ!」みたいなことを、簡単に発言するべきじゃないかな、と。

とにかく・・・判決は明日20日な由ですが、まぁ「死刑」でしょう。最高刑に処されて当然。それだけのことをこの「犯人」はやらかしました。

現状の最高刑が「死刑」である以上、まぁそりゃ死刑判決が出るでしょうよ。そのこと自体は異常な、不自然なことではありません。

※余談ですが・・・本来押さなきゃいけないはずのハンコ押印を、個人的な心情でもって拒んでる大臣さん、これはダメだよね。そう法律で決まってるんだから守らなきゃダメです。法治国家ですからね。法務大臣が遵法せんでどうする、というね。死刑の是非云々はまた別の話です。