2018年

7月1日未明。

門松は冥土の旅の一里塚などといいますが、満年齢計算が専らの昨今では誕生日がその「一里塚」になるのでしょう。
おかげさまで無事に今年の一里塚を迎えまた超えることができました。感謝。
 
今日の早い時間帯に、大学の同級生の訃報が届きました。オレが遊び惚けてる間に、一里塚どころか冥土の旅をゴールインしてしまった同級生がいる、というわけです。
 
ついこないだ新卒入社した会社での同期が亡くなって、そのお通夜に行ったばかりです。とにかく、こういうのはまだ早い。オレもたいがいなオッサンになりまして、ってことは同級生も等しくオッサンオバチャンになってるわけですが、だからといってまだ素直にゴールインしてよい世代ではさすがになかろうと思う。
 
しばらくご遠慮したいところですが、これから誕生日を迎え且つ超える回数が増すのに比例して、この手の報が、非常に、冷酷に、そしてあくまで淡々と増えていくんだと思う。どころか、場合によってはオレの側が報の発信元になるやもしれず。
それは承知しているつもりですが、それでもなお、まだ早い、早い、と。
 
とにかく今年の誕生日は無事に迎えることが出来ました。
まずは、そのことに感謝したいと思います。ホントに。

「コンサート」について。

数年前に山下達郎大先生のライブチケットを2枚入手することが出来まして、弊社従業員と行くことになりました。NHKホールだったな確か。
その弊社従業員はさほど大先生に関する知識も無かったので、せっかくだからちょっと予習しとこうってことで、オレん家から大先生のCDやらカセットやらいっぱい持ってったものです。
 
で、ライブ当日。
大先生のMCの一発目に出た言葉は、
 
“ボクのライブに初めて行くって方がおられたら、絶対に過去アルバムなどで予習などせぬように言っとけ”
 
“だいたいライブに行くのに「予習」ってのは不毛です。ライブとはそういうものじゃない”
 
というものでした。
弊社従業員はズッコけておりました。
 
対していつだか行ったPerfumeのライブ。
開始早々あーちゃんの口から出たのは
 
“みんな、ちゃんと私たちのアルバム聴いてきた!?”
 
でした。
 
どっちが良い・悪い、正しい・間違ってるって話では無く、ライブってもいろいろだなぁ、と。
 
ちなみに吉田拓郎大先生には、ライブに「“人間なんて”ツアー」と銘打っておきながら、結局一度も「人間なんて」をやらなかった、なんてなことがあります。
 
“オレにとってこの歌は今演るべきものじゃないんだ”
 
との由。
 
じゃあそんなツアータイトルにすんなよ!と誰もが突っ込んだものです。

TOKIOの山口さんが未成年の同業界の娘を自宅?に呼び込んでアレしたりして訴えられていろいろワヤになった件。

表題につきまして、どういうわけか被害者の娘を叩く流れもある由。

まぁ確かに、この娘が誘いに応じて自宅に行ったりしなければそもそも(少なくともこの日は)物理的になにも起こらなかったわけなので、そういう意味ではその分だけの罪はあるのかもしれません。

しかしながら、50近い遊び人のオッサンが同業界の未成年の娘を自宅に呼ぶにあたっては、あらかじめ“どうしてもこりゃ行かないわけには行かない”と思わせるようなところまで諸々周到な下ごしらえをしてるに決まってるので、百歩譲ってこの娘に斯様な「罪」があったとしても、それは決して「罰」をうけなきゃならないようなものでは無いとオレは思うのです。

汝らの中で罪を犯したことの無いものだけが石を投げよ、です。そもそも“ノコノコ家に行った娘が悪い”なんてことは、アラフィフの筋金入り遊び人なオッサンの手練手管を食らってなお自身を守れる鉄のメンタルを持つ者だけが発して良い言葉であって、16、7歳でもってそんな域にまで達してる人は現状のようにネット内で一大勢力になるほと多くないはずです。
それでもなお「オレ・ワタシは絶対大丈夫」と思う方もおられるかと思いますが、そんな風に思っちゃうヤツに限ってひっかかるのですよ。
今回はたまさか若い女性が「ならでは」の被害を受けたわけですが、こういうことはなにも女性に限ったことでは無く、老若男女誰でも被害者に成り得ると思う次第です。無論オレもなので、気を付けようと思う。

映画案内サイトの素人レビューについて。

あそこがダメ、ここがつまらん、展開が遅いとか早いとか、長文に渡ってさんざんクサしておいて、最後に

「というわけで開始40分で観るのをやめました」

って、全部観てないのかよ!と思わず突っ込んでしまうわけですが、考えたら映画案内サイトのレビュー欄というのは、あくまでも個人的な感想を勝手に書いてOKという趣旨で設けられたものであるので、なんでもアリ、うたってる通りになんだって勝手に書いてOK、なのですよね。

オレも例えばジョン・フォードの「三人の名付親」観て、ああ、ジョン・ウエイン以外の2人も最後まで生きててほしかったなぁかわいそうに、みたいなことを感じたりしたものです。
2人が死んじゃうからこその名作なのは承知の上で、またこういう風に鑑賞者に感じてもらうことこそが恐らくは性悪者側の狙いなんだろうと思うので、それはそれで個人的感想としては全くアリでしょう。

要はまぁ書き方の問題で、2人が死んじゃうから「駄作」だ、という具合に、オノレの分も弁えず「上から」書くところが問題、問題、問題、大問題なわけですね。

「大脱走」⇒出てくるのが男ばかりでムサ苦しくてダメ

とか、

「タワーリング・インフェルノ」⇒上映開始から40分経たないと火事が発生しないのでその間がつまんない

とか、

「ベン・ハー」⇒長すぎて観る気がしない

とか、

「燃えよドラゴン」⇒ブルース・リーが強すぎてリアリティが感じられない

とかいう「レビュー」にはアゼンボーゼンとさせられますが、考えたらオレも昔「大脱走」観たあとに焼き肉など食いつつ、

“しかし男ばっかしでムサ苦しい映画だよなぁ考えたら(笑)”

みたいな会話をしたかもしれません。

彼らは書き方がやたら「上から」なだけで、単純に且つ素朴にそう感じたに過ぎないのですきっと。かつての焼肉屋でのオレと同じく。

そういうわけで、この手のレビューには寛容であろうと心に決めての今日なのですが、先日フォードの「駅馬車」を観まして、あぁこりゃもうまごうかたなき映画史上に残る傑作だ、といたく感動し、同時に、これはもしかしたら…と思い当たる節もあり、で、先ほど心して件の類の「レビュー」を覗いてみましたら、やっぱりありました。

「米大陸先住民の表現が差別的」云々。

オチはありません。

またオリンピックについて。

特にフィギュアみたいな採点競技においては・・・いや他全ての競技においても、とにかくメダルを期待したり、それに重圧を感じたりっていうのは、五輪においては全く持ってバカバカしい、ほぼ無意味な所業です。こないだも書いたように五輪の審判ってのはしたり顔してるだけのワケワカラン奴がやってんだから、そんなラカラの採点なんかなんの意味も無いのです。
過度な期待がダメだってんじゃないです。「期待」そのものが有る意味罪なんじゃないかと思うのです。
 
こないだ、ボクシング競技で韓国の辺丁一選手がオレでもわかるバカ丸出しの判定でもってメダルを逸し、その結果を不服としてジャッジをブン殴って乱闘になった話を書きましたが、クドいようですがこういう事案というのはボクシング競技に限ったことでは無く、要するに夏だろうが冬だろうが、ロス大会以降の五輪というのはもはや単なるイベントであって、純粋なスポーツ競技会では無いのです。盛り上がればなんでもアリなんです=より盛り上がるヤツがそれとなく勝つんです往々にして。
「純粋なスポーツ競技会」だったらあんな判定やらかしたジャッジは永久追放モンです。ただそもそもこの時のジャッジはボクシング畑の人じゃ無かった(!)わけなので、永久追放されても痛くもカユくも無いんですよね。これがオカシな話じゃなくてなんなんだ、というね。
(なお、これまたクドいようですが、だからって審判をブン殴って良いってことじゃないです念の為。)

逆に言うと五輪ってものが事程左様な国際的な一大イベントであるのは事実なので、それが純粋なスポーツ競技会で無い以上、やれ国策であるとか、実力者のフトコロであるとか、「純粋なスポーツ競技会」だった場合には余分なものである事柄がより重視されるのもこれまた必然で、そういう意味で選手らは、これはもう被害者、当人及び周辺の方々にしてみりゃいいメイワクだろうと思う次第です。意識してるかどうかはともかく。

またまた逆に言うと、「純粋なスポーツ競技会」であった場合には余分である事柄、上記で言うとフトコロ云々はともかく、一例として、まず国策としての有用性ってのは厳然とあるわけです。いろんな事情でもって、デカいイベントを一発ブチ上げたい国ってのはあるわけですね。近しい国でいうと、80年代のソウル、ミレニアム以降の北京にはそういう「需要」があったってわけですね。

じゃあ、2020年に、東京でその大イベントをやる必然性ってのはどうなのか、というね。
少なくとも具体的な根拠は見当たらないですね。どっちかっていうとやったほうがマシになる気がする、みたいな、極めて抽象的な根拠しかオレには見えない。
要するに2020年東京五輪ってのは、これはある意味バクチなんですね。やったほうがマシになる気がするけど、やんなきゃよかった、ってな結果になるかもしれない。ツボを開けてみないと丁半はわからんのです。
1964年の東京五輪にはかなり具体的なメリットやメソッドが想定されてたはずですが、今度のはよりギャンブル性が高いように思うんですね。

今さらなようですが、イベントだからダメだって言ってんじゃないですよ。デカいイベントってのは心躍るものです。心躍って悪いことはあんまり無いですよ。
だから、2020年は盛大にブチ上げて欲しいと思う次第です。やることになった以上オレとしては「成功」に張りたいと思う。
でも、だからって、たかがイベントごとで、選手やチームをゲヒンな持ち上げ方したりそうかと思えば落としたりなどして弄んじゃいけません。

オリンピック。

1988年 ソウル五輪のボクシング競技バンタム級の試合で、韓国の辺丁一選手陣営が判定に抗議してレフェリー殴りかかり、しまいにゃ大乱闘になった、なんてことがありました。
韓国アマチュアボクシング界、ひいては韓国スポーツ界最大の汚点、ってなことになってる由ですが、まぁ肩持つわけじゃないですがこの試合、誰がどう見たって辺丁一選手の圧勝でした。だからってブン殴って良いわけじゃないですが、ちょっぴりだけは同情の余地があるよな、と思った次第です。
 
なんでまたこんなことになってしまったかと言うと、この試合・・・に限らず、どうやら多くの五輪競技の審判は、必ずしもその競技に精通してる人がやってるとは限らないんですね。
この辺vsブルガリアのナントカって選手の試合においては、ジャッジはそれまでボクシング競技に携わったことのないメンツだったとか。確かそのうちの一人は、ボクシング競技自体をこの試合まで観たことが無い人だったような話も聞きました。そのスジから。
  
なにがいいたいかというと、五輪というのは、スポーツ競技会としては必ずしも「優秀」なものでは無いんだよな、と。
毎回意味不明な採点、判定が取り沙汰されますよね。
 
ちなみに上述した辺丁一選手は、プロ転向後WBCのバンタム級王者になり、その後日本で薬師寺保栄選手の挑戦を受け、破れてタイトルを明け渡します。
でもって薬師寺は辺から奪ったこのタイトルに挑戦してきた辰吉丈一郎を、この年の年間最高試合となるベストパフォーマンスでもって退けて防衛に成功し、という流れになります。