2025年11月

普通の生活してたんじゃとても遭遇出来ないような人について。

世の中にはテレクラやら出会い系サイト経由やらでないととても出会えないような人がいる・テレクラやら出会い系を介すると普通の生活してたんじゃとても遭遇出来ないような人と、しかも結構頻繁に出くわしたりする……と、90年代後半に当時の同僚から突拍子もないエピソードとともにさんざん聞かされたものです。具体的にはとても書けませんが、おそらくこの投稿を読んでいる皆さんが想像するより数倍は「突拍子もない」です。いやホントに。

で、そういう人は普段はどこでどうしているんだろう、とずっと思ってたのですが、よく考えたら各種SNSにはいっぱいいるんだよな、と。

キレるポイントが摩訶不思議な人とか、間尺にあわないことでヒステリックになってる人とか、ただただイキってる人とか、明らかな変態とか、外見がありえない感じの人とか、そういうタイプには普通の生活してたらめったにお目にかかれないですが、なんだSNSにはいっぱいいるじゃんかよ、というね。

ヤバい人の可視化ツールとしてSNSは高いレベルで機能していますね。逆にいうと、少なくとも我が国では、SNSというのはひと昔前のテレクラやら出会い系サイトと同じベクトル上にあるのかもしれません。実際「パパ活」とかいうことでTwitterもといXで売春相手を探してる男女のなんと多いことか。SNSでそういうことをして無事でいられるほどこの媒体に秘匿性は無いってことくらいちょっと考えればわかりそうなものですが、いいトシしてそんなことにさえ思いが至らないアレな方々の多さ。

なんにしても、オレんとこには寄ってこないで欲しいと思ってやみません。アレな人同士のコミュニティでコトを済ませて完結していただきたいものですが、極めて残念なことにSNSという媒体は妙なレベルで平等なんですよね。困ったものです。

もう寝ます。

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昭和が遠くなったという話。

我が母校である東京都江東区立平久小学校。おそらく昭和51年頃に取り壊されたはずの旧校舎には、壁という壁に人の形、また手のひらの形の「しみ」がありました。いやそりゃもう外壁のあちこち、そこかしこにあったので、覚えておられる方も多いでしょう。っていうかオレの同学年プラマイ3年くらいの方であれば覚えてなきゃウソですね。

その正体は、東京大空襲の際に焼夷弾で焼かれた人たちが壁にもたれたり手をついたりした際に付いた脂の跡なのでした。ってそれを知ったのは後年のことで、在学当時も何回か先生に聞いたことがあったのですが、なんかウヤムヤというか、なんとなく口を濁してはっきり教えてくれなかった記憶があります。

なにしろ残っていれば間違いなくこれらは貴重な戦時遺跡になったはずです。しかしながら残念なことに昭和中期の頃はそういうことに無頓着だった由。保存するような話は一切無かったようです。実にアッサリと壊され、整地され、現在に至っています。

深川ギャザリアに面する道沿いにあったのですが、当たり前ですが当時の、そしてもちろん戦禍の面影はもはやカケラもありません。

終戦後約30年経過の当時は、まだまだ戦中の記憶を生々しく抱えておられた方が中年・壮年期。いまいましくまた辛い痕跡はあまり口にしたくない・トットと壊してしまいたい、ってな感情というか感傷も、意識無意識に限らずどこかにあったのでしょう。
また俯瞰するに時はまだ高度成長の途上。過去の事どもによけいな頓着をせず、ひたすらな、思い詰めたような前進を社会に半ば強いられてたような空気が我が国に横溢してたってこともあるでしょう。はっきり教えてくれなかった先生にも、アッサリ解体許可を出したお役所の方にも。

いずれも、今にして思えば、という立ち位置での想像でしかありませんが。

門前仲町から東22系統の都バスに乗り、東陽町交差点にさしかかるあたりに、東陽町公園というそこそこ大きい公園があります。
いつだったか……もう30年近く前のことですが、このバスの中、オレが立ってる目の前の優先席に座っていたジィさん2人の会話が聞こえてきました。

“そういやここで燃やしたなぁ、戦時中”

“ちょっと掘ったらまだいっぱい骨が出てくるんじゃねぇかね”

とかなんとか。

空襲で亡くなった方の遺骸を生き残った方々がこの公園に集めて……っていうか山積みにして、ガソリンだかなんだかでもって一斉に燃やした由です。ジィさんらはこの「山積み」にした当人、すなわち生き残った側の人で、いわく、そうでもしないとどこも足の踏み場がなかった、とか。

「山積みにして一斉に燃やした」のがこの公園だけだったはずもなく、深川、城東地区のそこかしこで同じようなことが行われてたんだと思います。
ちなみにこの手の「遺骸で足の踏み場が無かった」という趣旨の話は、方々でいろんな方から聞きました。

オレが子供の頃は8月になるとさまざまな子供向け雑誌も一様に終戦記念号になったものです。
あの少年ジャンプも各連載漫画が普段と違う調子になりました。
トイレット博士でさえギャグ抜きの終戦記念篇になってました。スナミ先生が子どもの頃の戦争体験を思い出す、みたいな感じで。

今はそういう感じじゃないようですね。あの頃は作家も編集者もガッツリ戦争体験者な世代だったんですよね。

令和7年現在。
ジャンプはいつも通りだし、東陽町公園にも平久小学校にも、碑のひとつもあるわけじゃなし、です。
先の大戦についてのアレコレも、かくして時間経過という篩には抗えず、あえなく風化していく、ということなんでしょう。
考えてみればちょっとベテランの域に足を突っ込んだくらいの学校の先生でも平成元年生まれだったりしますからね。もはや一次的にこれらを伝えられる世代は現役ではありません。どうしたって二次的、三次的な立ち位置の方が、“じゃあ今日は平和についてみんなで考えましょう”とかやってるわけです。どうしたって説得力には差があるでしょう。

もちろんやんないよりはやる方が数億倍マシですが、残念といえば残念、また一次的な体験を聞く機会がまだあったオレの世代はある意味でラッキーだったんだな、と思う次第です。

バスの中で遭遇したようなジィさんらも、刻一刻と旅立っていかれています。今日NHKで広島原爆投下の特集番組をやってましたが、往時を知る人ってことで出演されてる方々、ほぼ皆さん90歳半ばでしたね。オレが子どもの頃は「おっさん」「おばちゃん」な世代がこういう話をしてたと思うのですが……そうですか、いつのまにかこれほどの時間が経過したのですか、と。
時間経過という篩には我々は無力、これには決して抗えないのであります。

せめて修学旅行には、たとえば知覧だとか、また都内であれば靖国神社だとか東京都慰霊堂だとかに行くべきじゃないですか。ディズニーランドやUSJなんぞに行ってる場合じゃないよな、と。
「修学」なんですからね。これらの施設etcは、もはやどんどん貴重化していってる各種の一次資料でいっぱいです。

原爆投下時の広島は暑かったらしいですね。って今年の夏ほどじゃなかったんでしょうけど。

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