お祭り。

今週から「深川八幡祭り」です。今年は本祭りということで、神輿56基勢揃いの連合渡御が執り行われます。地域自治(組織)の有名無実化が盛んに言われる昨今において、町内会ごとに神輿、それも結構なデカさのを所持しているというのは、これは結構稀なことなんじゃないかと思います。当の神社様にはここ最近いろいろあった・・・いやホントにいろーーーんなことがあった由ですが、そういう事どもに頓着することなく、今年も盛大に行われるようで、なによりです。
 
約10年間ほど、このお祭りに文字通り「付きっきり」だった時期があります。なにかって言えば神輿関係の取材ばかりしていました。本祭りは3年に一度ですが、その間の2年間は何にもないのかというと決してそんなことはなく、子ども神輿の連合渡御有り、お宮の神輿(の二ノ宮)の渡御有り、やれ○○町で神輿を新調した・修繕した、△△町で神輿練習会がある、○日には幹部総代の会議があ、と、なにしろ一年中、っていうか年がら年中「お祭り」と関わりっぱなしの10年間でした。
 
100万人からの人出が予想されるこのお祭りですが、エラいのは「単なる大イベント」というところに帰結してしまってないところです。
いつだったかこの連合渡御の「10時間生放送」なる番組を作ったことがあるのですが、その際に総代さんに耳にタコができるほど言われたのが、この「単なるイベントとして採りあげるな」ということでした。即ち、お祭りというものはあくまでも神事(の一環)であって、神輿はその名の通り神様の乗り物であるので、そのつもりで放送しろ、と。

このことは存外ないがしろにされがちな事柄で、余所のお祭りなどには、この総代さんらの危惧してたような「単なるイベント」としてしか見られてないようなものも多い由です。
深川のお祭りはそういう視点で切り取るな、と、クドいようですが口を酸っぱくして言われました。言われまくった。

実際「深川八幡祭り」には、神事としての崇高さがあります。これは参加したらわかります。実際サケ飲んで神輿担いでる人もいなけりゃ、カラフルな肌の方々が神輿の上に乗ったり、ケンカしたり、なんていうことも「絶対に」ありません。神輿の上にのってはっちゃけたり、ケンカなど大暴れしたいから祭りに参加する、というようなヤカラが多い中、このあたりが徹底できてるというのはスゴいことだと思う。
 
深川八幡祭りは、そりゃもうトンでもなく賑やかな、盛大なお祭りです。恐らくは猛暑の中での挙行となると思われますが、水掛け祭り・水掛け神輿といって、この神輿渡御はその道中で神輿に水を掛けまくります。なぜ掛けるのかには諸説ある由ですが、とにかくザブザブ、ドカドカ掛けます。なので、まぁ暑いことは暑いですが、とりあえず合法的に往来で水浴びできるわけなので、暑気も自ずから払われます。4トントラックに水を満載してバケツで掛けまくるは、消防団が放水車で散水するは、そりゃもう大騒ぎです。おかげでオレは今でもカメラの防水化には大いなる自信を持っております
 
本祭りの年は、前年の年末くらいから幹部総代の皆さんがピリピリしてて、オッカなくて弱ったものです。
今週の土日が今年の本番です。さぞかし皆さんお忙しいことでしょう。成功をお祈りしておりますよ。

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酷暑の中、名古屋ロケしてきました。

以下、愛知は名古屋の雑感です。
名古屋はみんな車の運転が荒いから気を付けて、なんてことを言われてたのですが、実際行ってみると皆さん運転が非常に穏やかで拍子抜けでした。道に明るくないが故に割り込み等もしばしばやらかしたのですが、都度皆さん穏やかに、優しくそれを許してくれました。
そういや沖縄でも大阪でも愛媛でも同様なことを言われましたが、いずれにおいても運転の荒さに閉口するような体験はついぞしませんでした。これは思うに、要するに日本で一番運転が荒いのは東京だ、ってことなんじゃなかろうか。実際今回も、用賀から首都高に入っ他途端に、名古屋高速との運転マナーの差異を強烈に見せつけられました。
 
あと、これも事前に聞いてたのですが、名古屋にはやたら喫茶店が多く、でもってどこもモーニングやらがメッタクソに充実している、と。
確かに、コーヒー一杯400円で、サラダ+トースト+少々のオカズが「サービス」で付くんですね。東京だったら普通に総額800円くらいになると思うのですが、かの地では総額400円ポッキリ、ジャムをひとつ追加すると+30円とか細々オプションもある由ですが、400円で十全な朝メシにありつけちゃうというね。これで店としてやっていけるんだとしたら、東京のこの値段はなんなんだ、ということになるわけですが、かの地ではどこでもこの価格帯のようです。オカシな話です。
 
朝メシ問題としては、このトーストの「名物」のひとつに「小倉トースト」なるものがありまして、これは焼いた食パンの上に山盛りのアンコが乗ってくるんですね。朝っぱらからこういうものを食ってる名古屋人にはきっと胃腸の丈夫な人が多いんだろうと思う。
 
あと食い物でいうと「ういろ」というものがありまして、これは以前大阪で、こんなものを食ってるヤツはおらん、お茶請などでしばしば目にするがこれはひとつが永続的に世の中に廻ってるだけにすぎない、そもそもこんなものを有り難がって食ってる名古屋人は○○○がオカシい、などとよく聞いたのですが、なんのなんの食ってみたら存外美味いのです。○○○がオカシいのは他ならぬ大阪人の方だったのだ!とオレは確信した次第です。
 
現地入りするまで、名古屋ではみんな「ぎゃーも」とか「みゃー」とか言ってて何しゃべってるかわかんないんじゃないか、とか、コンビニとか無いんじゃないか、とか、ちゃんと道路は舗装されてるんだろうか、などと心配していたのですが、結論から言うといずれも杞憂で、なにしろ非常に良い街でありました。私的ベスト3に入るね。

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母校。

先日というか一昨日、我が母校(高校)の部活の先輩との打ち合わせ兼飲み会がありました。OBとして我が出身部、ひいては母校そのものを如何にして盛り上げるか、という趣旨で、そのための方策について文字通り膝を突き合わせての会合と相成りました。ホントはそもそもオレ自身「OB」を名乗れるような立場では無いのですが、なんだかなし崩しに誘って頂いて、図々しくも参加している次第です。
 
歴史と伝統の裏打ちのある我が母校ですが、告白しますとどこかのタイミングでそういった伝統が切られて現在に至っている、という印象が常々ありました。なんやかやで、いろんなところが昔と違っている、それは形而的な事柄のみならず、本質的なところで・・・と。
一昨日は先輩方とそんな話もしまして、その末に出た結論というのは、やはり「共学化」がデカかったんじゃないか、との由でした。共学化によって我が母校は、それまで続いてきたナニゴトかを切り捨てざるを得ない、という状況に陥った感じがあるようです。バンカラなばかりでは女子受験者が引いちゃうんじゃないか、とかね。さながら文化大革命後の中国の如し、です。歴史は有っても、それはそれ、という。
変わるためには、場合によっては切り捨てなきゃならないものもあるんですね。でも、それは世の常というものです。
 
でもまぁ切り捨てるものもあれば、代替として得たものもきっとあるんだと思う。某先輩は、運動部の試合などの応援にチアガールが出張ってるのがどうにも生理的にダメダメな雰囲気でしたが、彼女らだって往時の応援団の面々と同じくらいガンバってるんでしょうから、そういうことは言いっこなしですよ、と。
我が出身部にも最近「女子マネ」がいるらしいのですが、スコアブックつけたり用具や部費の管理なんかは、ガサツなヤローなどより、ちゃんとした女の子がやった方が良いに決まってます。自明です

共学になってからもうずいぶん経ちますので、共学としての伝統だってそろそろイイ感じに熟してきている頃かと思います。そんな中に男子校だった往時のアレコレに拘っても詮無いのかもしれません。新生の母校に期待するところです。
 
ところで諸々の資料作成のために我が母校のサイトなどつらつら眺めておりましたら、「放送同好会」なんてのがあるんですね。
その説明には

「放送は「声、音、映像」を用いた自己表現の場所です。自分の声をいかしてナレーション活動をするもの、BGM作りや、状況にあったカメラ撮影をするものと様々です。」

とありました。
スバラしいねぇ。BGM作りってなんだろうガレージバンドかな、とか、カメラは何を使ってんのかな、などなど、興味津々です。メディアで「自己表現」なんていうのは高慢でしかないのですが、そういう紋切型の部分にイチャモン付けるのは無粋というものです。
 
ということで、近々に上記の先輩方と母校にお邪魔することになりましたので、ついでにこの放送同好会のお話も伺ってみようと思います。

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「セーラー服を脱がさないで」などについて。

今日のディナーは健康のために立ち食いソバにしたのですが、店内に「セーラー服を脱がさないで」がかかってまして、ゆで上がりを待ちつつ30年ぶりに、というかちゃんと聴いたのは初めてかもしれないのですが、まぁとにかく全編聴いてしまった結果、これは、なんというか、ヒドい歌だなぁ、と。
バカバカしいだけなら世の中にまき散らす害も最小限ですむところ、この歌には決定的に品が無い。こんなゲヒンな歌だとは思わなかった。こんなどうにもならない歌が30年前にはやたらヒットしたわけですが、この歌及びその歌唱者を支持したのは主にオレなどの世代であるので、こんな歌を流行らせた責任の多くは我々にあるんだよな、と、なんかソバ屋で反省してしまいました。

考えてみるとこの2014年現在、世に妄言駄言をまき散らしてるのは主に30歳台後半から40歳台中盤くらいな気がします。
例えば原発事故やその瓦礫処理に関してなどに於いても、バカ丸出しな発言を繰り返してるのは大抵オレと同世代くらいのオッサンオバチャンだったりします。
ちょと調べたらわかるだろ!ってなことを堂々と発言してるさまは、とりあえずみっともない。実にみっともない。そして恥ずかしい。この類の歌どもを有り難がって聴いてたようなのがマトモであるわけがないので、それもむべなるかな、です。情けない限りです。申し訳ない。

ところで最近の歌はどうかというと、AKBの一派といい、SEKAI NO OWARIといい西野カナといい浜崎あゆみといいきゃりーぱみゅぱみゅといいperfumeといい、これよりはもうゼンゼンまともマトモだと思えます。
そりゃ中には「セーラー・・・」に近いレベルで下らないのもあるけども、少なくともこれほどまでにゲヒンでは無い。
逆に、ここまでアケスケに品の無いバカ歌が今リリースされたとしても、誰がどう小細工したところで絶対にヒットしないだろうと思います。

だから、いわゆる「最近の若者」は、きっとオレなんかの世代よりずっと優秀なんだと思う。
そして同時に、思うにオレなんかの世代は、有史以来初の「今どきの若いもんは・・・」と言う資格の無い世代なんだろう、と思う次第です。

ところで前述の立ち食いソバ屋ですが、以前ここはきっと世界で一番マズいソバ屋に違いないとか書いたと思うのですが、不思議なことに今日は存外美味かった。
ただ、盛りソバ大盛りを頼んだのですが、厨房内で、茹でる係の店員と別の店員との間で、「玉は?」「ひとつ!ひと玉!」という会話が有ったのが気になっています。実際出てきた盛りソバは、少なかった。

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「アナと雪の女王」観てきました。

思い立って深夜になって「アナと雪の女王」観てきました。出先の至近でやってたので、フト思い立って、という感じで。
人気話題作だとどこか小馬鹿にして手を出さないような俗物はオレとしては忌み嫌う対象で、いわゆる話題作だろうがマイナー作であろうが拘り無く観るのがモットーだったのですが、振り返るにここ数年は無意識のうちにそんなヤカラになってたような気がします。昔はE.T.だろうがフラッシュダンスだろうが戦メリだろうが自分のモノサシだけの判断でなんの拘りも衒いも無く観に行ったじゃないか、こんなことじゃいけないなぁオレ、と思い知らされた作品でした。いやぁ、これはヒットしますわそりゃ。食わず嫌いはいけません。
考えてみれば極めてシンプルな、ある意味不躾なところさえある当作品ですが、そんなことにはお構いなしに魅せてしまうってのは、これは太宰の言う「才能の巨腕」というやつでしょうか。
 
いつだか「レ・ミゼラブル」観たときにも感じたのですが、アチラの方々は実にうまいこと己の宗教世界を活かしきるなぁ、と思います。
言い方を変えると、誰も彼も自らの宗教を意識して暮らしてるんだろうな、と思う。いろんな人種が共同生活するにあたって、宗教というものが貴重な共通価値観として機能しておるな、と感じます。
 
たちかえって我が国ではどうかというと、このあたりがなかなかうまいこといってない感じがあります。なかなか作品の中に宗教が生かされてない気がする。
外国人記者クラブのみなさんいわく、ニホンジンほど信仰心の強い国民はおらない、とのこと。だとすると思うに我が国のそれは各々の無意識層にまで浸透しきってるだけに、なかなかあえて具現化しにくいのかもしれません。宮崎パヤオ氏が「もののけ・・・」や「千と千尋・・・」でちょっとだけ試みてるような感じもありますが、当作品のようにその部分がそのままエンターテイメントの主題にはなってませんね。
まぁこのことは、どっちが良くてどっちがダメってな話じゃないですけども、なにしろ当作は(も)、実にその辺がなんの衒いも躊躇いも無く表現されてますな。汝の隣人を愛せよ、右のホッペタを殴られたら左も差し出せ、です。そしていきつくところはアガペーなわけですね。
 
ところで某サイトでのレビューをみるに、「期待外れ」ってな意見も散見されます。思ってた展開と違う、オレの考えるディズニー映画はこうじゃない、というような。
まぁそれはそれでひとつの意見ではあるのですが、私的には、事前に想像してたストーリー展開と違ってるからこそ面白いんんじゃねーかよ、とも思えます。予定調和じゃないとイヤだ、ってのはいかにも狭量だねぇ。
 
自分の器の範囲でしか作品を愉しめないってのは悲しいことです。器を広げてくれるのが「佳作」というものですよ。当作は、特にお子さんにとってはそういう意味で最良の「佳作」だと思います。

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黒澤映画音楽についてちょっとだけ。

黒澤の「赤ひげ」において、佐藤勝はハイドンやらブラームスやらから盛大にパクりまくった、などという不埒不遜な見解に対して、今オレは大いに憤っております。
ただまぁ事情を知らなかったらそう考えてしまうのも宜なるかなで、要するに「赤ひげ」内の、例えばメインテーマは完全にブラームスの交響曲(何番だかは忘れた)だし、長坊が出てくるテーマはハイドンの「驚愕」(正式名称は知らない)にクリソツです。それはまぁ事実そうなんで、そこのところには抗いません。
でもね、と。
 
有名な話ですが、黒澤は作曲家に発注?する際、例えば「ベートーベンの第○みたいな曲を」というようなことを言ってきたそうで、さらに確かこの「赤ひげ」のときは、実際にベートーベンの第九だかに合わせて編集した映像素材をみせて、こういう風にしたいんでよろしく、と言い放ったとか。
初めてこのエピソードを知った際、オレは引いた。引きました。ドン引きでしたね。逆の立場だったら顔面蒼白茫然自失、恐らく怒りも忘れて忘我の境地、です。
少しでも、単なる収録物ではない「映像編集」をやったことのある方なら、これがどんだけムチャな要望かおわかりになると思う。音楽の旋律・小節に映像を合わせてつないで、それでバッチリだってんなら、もうその曲を使ってもらわなきゃどうにもなりません。ちなみに武満徹は「乱」だかでやはりこれをやられて、「オマエとは金輪際仕事しないぜ!」となった由。そりゃそうでしょう。さすがにやってられませんこれはね。
 
で、こんな想像を絶するムチャ振りに対して、よくもまぁ佐藤勝はこんな名曲をモノしたもんだなぁ、と感嘆する次第です。スゴすぎます。
そして、作ってる立場のことも考えずに、安易にパクっただナンだというヤツに憤るのです。
 
 
ということで、明日はいよいよ納品です。

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太宰(フォロー編)

昨日は編集の修正したり打ち合わせに行ったりして疲労困憊しており、またとにかく眠かったので、その勢い?にまかせて太宰について、やれ中二病だ、恥ずかしくって読めたもんじゃない、などと思わずボロクソ書いてしまいましたが、その後12時間近く寝てさらにユンケルもキメて復活した今になって振り返るに、それはさすがに少々書き過ぎであった、筆が滑ったにもホドがある、ということで目下少々反省しておりまして、といってオレは太宰にはこんなことする縁もゆかりもないですが、ここでちょっとだけフォローしておきたいと思います。
 
恥ずかしくって読めたもんじゃない、とまで書いておいてナンですが、太宰は面白いです。
 
伝記などをひもとくに太宰は非常に「座持ち」のする人だった由。
中学1年のとき、産休の代理で来た国語の先生が、おしゃべりな人の文章というのはとにかく1文が長い。漱石なんかは寡黙な人だったそうで、確かに一文がバシバシと切られて短い、野坂昭如はテレビであんな感じである通り作品も冗長でダラダラ長い、なんてな話をしてくれました。
今思えば12、3歳のガキによくそんな話をしたもんだと思うのですが、とにかく当時のオレはいたく納得したものです。
 
その伝でいうと、太宰の諸作品は、やたらめったら一文が長い。文庫本見開き2ページにおいて「。」がひとつだけ、なんてこともままあります。要するにやたらめったらよくしゃべるオッサンだったんだろうと思う次第です。
で、これは疑う余地もなく、太宰は猛烈な遊び人だった由。要するに「よくしゃべる座持ちの良い遊び人」だったというわけですが、そういう人の話や書いたものがつまらないわけが無いのでありますよ。
 
でもって、そこはやはり「走れメロス」を書いた人なわけで、ベラボーな物語創造能力のある人でもあった、という。
そういう能力を持つ人が、生涯ほぼ全身全霊を賭して、「座持ち」=見聞きするひとを飽きさせずに面白がらせる、ということに腐心しまくってたわけですから、そりゃ名作が産まれますわ。
 
「晩年(関係無いですが処女作品集にこんなタイトルを付けちゃうところがいかにも中二っぽくてイイ)」から「グッド・バイ」までを並べてみると、ある面においては、「座持ち」能力の変遷記録、という見方もできるんですね。当然ながらそれはさながらメロラップのごとくガンガン・ズンズン・グイグイ上昇しておりまして、「グッド・バイ」などは、未完ながらこれはもう大傑作ですよ。太宰の「座持ち」力の頂点ですね。未読の方は一度読んでみたらおわかりになると思います。
しかし残念ながら、恐らくはいつものように「カフェ」の「女給」を、オレはもうダメだ、一緒に死んでくれ、とか言って口説いたら、いつもなら「大人の対応」されるところ何故か本気にされてしまい、行きがかり上心中しなきゃなんなくなってしまって、結果未完となってしまったわけで、非常にもったいない話だなぁ、と思う次第です。
 
 
ということで、現在第11校目となる編集修正指示の待機中です。

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太宰。

高校時代あれほどハマり、そのあまり自分だけで収められず、当時隣の席だった舎人のガソリン屋のムスコ氏にまで波及させた我が太宰熱でしたが、あれからン十年、改めて諸作品を読むと・・・いや、読めないのですね。気恥ずかしくて読了できない。
奥野健男は、初老の域に達してなお、太宰は人間失格を書くために小説家になったと言っても過言じゃない、みたいなことを堂々と書いておられましたが、当時の氏よりはるか若年、未だ中年域の段階であるオレは最早そんな感想を抱くはるか以前のレベルで、独特の文体もハナについて仕方なくなってしまいました。
要するに「行き過ぎた露悪趣味」という感じでしか捉えられないでおります。読んでるこっちが恥ずかしくなる、という感じのが多いです。「晩年」なんかその最たるもので、これは要するに重症の中二病患者の手になるものですよ。そうじゃなかったらこれはなんだ、という。まだ「畜犬談」なんかはいい感じに枯れてて良いのですが、初期作品はムリ、無理ね。
良く言えばうまいこと中二病から脱却できたとも言えますが、悪くいやぁ感性が老化し鈍麻してしまった、ということかもしれません
でもって一番よくないのは、この件に関しては自分自身恐らく後者だと思うのですが、それでも別にヘイチャラでいられる、というところですね。実にタチの悪いオッサンです我ながら。当時こういうオッサンにだけはなるまいと思ってたはずなんですが、ものの見事に「太宰を鬱陶しがる忌まわしいオヤジ」になってしまいました。いやはや。
U田くん、申し訳ないね。当時さんざん勧めておいてこれだよ、という。
 
ただ、「津軽」だけは別ね。太宰の代表作品は?なんて問いに対して、(奥野氏も含め)たいていの人は「人間失格」を挙げ、ちょっとスノッブなヤローは「晩年」を推し、普遍的なその文学性云々ってことで「走れメロス」をピックアップする人も多くおられますが、いいオッサンになったオレとしては、「津軽」が最高傑作である、となんの疑問も猶予もなく思うのです。
 
ちなみに、当時愛読していて、今再読しても変わらず面白いものにはどんなのがあるか。
これがですね、自分でも少々意外なのですが、太宰以外は大抵変わらず堪能できるのですね。
とはいうものの堪能の仕方に多少のズレはあります。例えば丸谷才一の「男のポケット」なんかは往時も面白く読んだもののちょっとシブ過ぎ地味すぎかなとか思ってたのですが、今としてはシブ過ぎず地味すぎずイイ感じです。吉行淳之介の諸作品などはぶっちゃけ当時読み取れなかったところなんかもどうにかこうにか理解できるようになった、という明確な自覚があります。
ただ吉行作品に関しては、まだ読み切れてない感じがあります。してみると今のオレは、太宰を堪能するにはオッサン過ぎ、吉行作品を愉しむには青二才過ぎる、という、非常にダメなところにいるらしい。
 
で、繰り返しになりますが、なにしろ一番ダメダメなのは、別にそれでもヘイチャラである、というところですね。吉行作品の掘り出し物なんかが転がってたりしないか、とAmazon内をサーフィンしていながら、「応募即撮りH系さな写真集」なんてのがフト出てくるとほぼ無意識にとりあえずクリックし、なんだこのブ○○クな女は、クリックに所要した時間を返せ、などとブツブツ一人で毒づいているオレがいます。
  
そういうわけで、kindle生活もまぁ順調な今日この頃です。

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ポール・マッカートニー!

ここ数日遊んだり仕事したりその他いろいろしてる間に、世の中にもまたいろいろあったようで、なによりポール・マッカートニーがまたまたまた来日公演することになった由。こないだ来たばっかしじゃんか、と思うのですが、まぁ当方としては何度来てもらっても構いません。
 
昔はともかく、今は熱意も知識量としても、堂々と「ポールのファンです」と胸張って言えるような状況に無いオレなのでメッタなことは言うべきじゃないとは
思うのですが、それでも書いてしまうと、ここんとこポール及びその取り巻きは、ずいぶん変わったなぁ、と思う次第です。大げさに言うと「変質」した感じが
あります。
聞くところによると、なんか日本の週刊誌かなんかの取材で、あの、ポロシャツの胸ポケットだかに大麻を入れたまま成田の税関を抜けようとして捕まって拘置
所にブチ込まれた際の話なんかをペラペラ喋ったりしてる由。そんな質問をするやつ(湯川れい子だった気がする)もするやつですが、ペラペラ答えるポールも
ポールで、やれ看守にサイン求められただとか、同房のクリカラモンモンのヤクザと妙に気が合ったとか、そういうことを喋る人じゃなかったような気がするのです。ヘンクツなイメージがあったわけじゃ無いのですが、こういう質問に対してはなにより周囲がピリピリしてたんじゃなかったかな、というね。
人間、功成り名をあげ、且つトシをとると、昔の事柄なんぞどうでも良くなるんですねきっと。
 
ところで地球上の人類は、まぁ中には極めて例外的に「どっちも好き」とか「どちらも別に」なんていうよくわからない価値観の人がいたりもしますが、基本的にポール派とジョン派に大別出来ます。ホモ・サピエンスは必ずこのどちらかに属します。
で、ANNなんかを聴くに例えば坂崎@アルフィーや拓郎はジョン派だそうで、いわく「若い時は、なんとなくポールの商業主義的な感じがなじめなくてなァ」
とのこと。事程左様にどっちかっていうとジョンにシンパシーを感じる、という方がやや多数派な気がします。なんとなくですが。

しかし、オレは正にそのポールの商業主義的な部分、もっと言うと、その他に類を見ない「臆面の無さ」をこよなく愛します。
前回の来日時のライブ、オレの記憶に間違いが無ければ、セットリスト1曲目が「Eight Days A Week」だったはず。こういう曲を一発目に持ってきちゃうところがいかにもポールらしくてオレは大好きなのです。
 
20年くらい前に「ヤァ!ブロード・ストリート」なる映画がありましたが、これはもうスゴい映画でした。ポールの脚本・主演作なのですが、簡単に言うと、
竹馬の友(=リンゴ・スター)がなんか殺人だかの事件の犯人として捕まってしまい、世論もリンゴに否定的なところで、ポール扮する主人公が「世界の誰もが
疑ってもボクだけはリンゴを信じる!」とかいって苦心の末に真犯人を見つけ出し、最後はメデタシメデタシ、という、まぁはっきり言ってバカバカしさもここ
に極まるロクでも無い映画で、興行成績も惨憺たる有様だった由なのですが、オレはこういう脚本を臆面も無く書いて、しかも自身が主役で制作してしまうポー
ルの図々しさに惚れましたね。ポールはそうでなくっちゃいけない、と。
 
むしろビートルズ時代から、ポールのスゴさは、こういう臆面も無いド正面からの曲を数多作っていながら、それが全て陳腐に落ちないところだと思うのです。
音楽に限らず、普通はこういう図々しいスタンスでモノ作りすると陳腐でみちゃいらんない出来になっちゃうものだと思うのですが、ポールの場合少なくとも音
楽というジャンルにおいては決してそうならない。上記の「ブロード・ストリート」も、映画作品としてはロクなもんじゃないですが、サントラ盤は不思議なく
らい素晴らしいものでした。どっちも同じスタンスで作られてるはずなのですが。
 
その他にも、マイケル・ジャクソンが「スリラー」でブレイクしたと思ったらすぐ声を掛けて「セイ・セイ・セイ」etcを「共同制作」し”ぼくらの友情の証
しさ!”なんてな発言をしてみたり、若い頃からさんざんハッパやらLSDやらをやりまくっておきながら、いつのまにか「麻薬撲滅キャンペーン」などを主宰してみ
たり、どころかベジタリアンになっちゃったりするポールが大好きです。
今回の来日ライブも、もしかしたら1曲目が「イエスタディ」だったりするんじゃないかと期待している次第です。
 
なんでこういうことをこんな夜中に書いてるかというと、今回の来日に対して、さすが親日家のポール!なんてことを書いてる方を散見したからです。
なんにもわかってないなァ。ポールはヨーコが生まれた国であり、元ビートルズメンバーである自分をムショにブチこんだりしたこの日本国なんか大嫌いなはずですよ。
でもきっとライブでは、臆面も無く図々しく堂々と、ハロー!親愛なるニホンのミナサン!ボクは愛するニホンに来れてベリーハッピーだよ!などと叫ぶに違いなく、そんなポールを観てオレはきっとウレシ涙をこぼすのです。

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遠い遠い昔。

先崎学のエッセイに、なんか重いものを持ち上げた時に思わず「よっこいしょーいち!」と言ってしまって、周囲の若者にポカンとされた、という話がありました。
呆れられたりムッとされたりではなく、なぜ「ポカンとされた」かについて、著者は、彼らが若者であるが故に「横井庄一」を知らないのだ、というところに思い至るのですが、そういや先日小野田寛郎さんの逝去の報も、オレとしては思いのほか扱いが小さいなぁ、と思ったものです。

昭和も遠くなりにけり、時は常に流れ時代は変わるのだ、と改めて思うわけですが、同時に、その時代におけるメインストリームとされる世代が若年化している感じもあります。その時代の中心中核を為す世代というものが、だんだん若くなってる、そんな気がします。
例えば、我が国のありとあらゆるメディアは、20年ほど前と比べてそのターゲットが10歳は若くなってる感じがあります。確かに小野田さんに関する諸々は「昔のこと」ではありますが、それにしてもちょっと扱いが小さすぎやしませんか、と思う。

江戸時代、オトコはみんな前頭部を剃ってチョンマゲ結ってたわけですが、オレが思うにあれはハゲに合わせてるんだよな、と思う次第です。ハゲてない成人男子はみんなハゲてるオッサンに合わせろ、と。

同様に女性も・・・和服着るときって、正式名称は知らないですがなんかタオルとかをお腹部分にグルグル巻きますよね。そうしないと和服ってのはカッコよ
く着こなせないようになってるんですね。これも言ってしまえば中年太りの状態を人工的に作ってるわけで、要するに成人女性はオバさん体型に合わせろ、と
いうことに他ならないんじゃないか、と。

事程左様に、江戸時代までさかのぼるまでもなく、昔は主体がオッサン・オバチャンだったんですよね。
でも、今は間違いなく「若者」です。
FBや、各ポータルサイトの広告などを見ても、オッサンオバチャンに対する、いかに若さを保つか、といった主題のものがやたら目につきます。
まるでオッサンオバチャンであることが恥で悪ででもあるかのように。

私的には、若者であるということには、80%くらい「無知なバカ」であるという意味が含まれてると思うので、こういう様相はオッチャンオバチャン、引いては当の若者のみなさんにとってもあんましトクなことでは無いと思う次第です。

まぁなんのかんの言っても小野田さんに関する諸々が「遠い遠い昔」のことであるのはその通りなんですけどね。小野田さんも、津田信も、関係者のほとんどがもう彼岸の人です。

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