安藤和明

「守秘義務」その他。

「守秘義務」ってあるじゃないですか。これの基準ラインのバラバラさにはもうビックリです。弊社のような業種の場合、まずなにか動画やサイトやらを作りたい・作らなきゃならないっていうお客様がおられて、その制作を代行してるって立場なわけですよ。要するに、ああ、自分で作れない?ほいじゃナンボか貰えるなら代わりに作ってあげますよ、って業態なわけです我々は。極めてザックリ言っちゃうと、ですが。

だから、そのお客様や代理店様の許可もなく“これが弊社制作物ですよ”って不特定多数に提示してしまうのは、オレは「違う」と思うのです。

「守秘義務」という概念の根っこにあるのは、この「違う」なんだと思う次第です。そこは「守秘」すべきポイントの大きなところじゃないですか。

しかしながら、平気で自社サイトなどで提示してる会社様が多い。これはもう「やたら」多いです。

皆さんクライアントや代理店様に許可もらってんのかね。とりあえずあまり上品じゃないですよねそういうのは。いや許可貰ってやってんならなんの問題も無いわけですけども。

ところで政治家の方の世界ですと、例えばA議員が長年携わって進めてきた案件があったとして、それがいよいよ実現!ってタイミングになった際、いきなりそれまで敵対していたB議員やC議員が“我々の努力が実りまして”とかなんとか言い出すケースがままある由です。こないだ来たる区議・区長選を見据えての区政報告会という名の総決起大会に行った時、思いっきりそれを「体験」したところです。

臆面もなくそういうことを言い放っちゃう候補者も候補者ですが、都度“そうだ!”とか“よくやった!”とか合いの手を入れる支持者?支援者の方々、あれは知ってて言ってんのか、もしくは知らないんだろうか、と。

でもそんなことを知らないような人が政治家の「支援者」になったりするもんかなぁ、と考えると、やっぱ知ってて言ってんだよな。

鉄面皮もしくは「鈍感力」ってことでは、我々のなにも違うところはありませんですね。

深川八幡祭り。

今年は「深川八幡祭り」が行われるとのこと。本祭りということで神輿56基勢揃いの連合渡御が執り行われます。

なんかずいぶん久々な気がしますが、実際久々の開催なんですよね思うに。

特に都市部における地域自治(組織)の有名無実化が盛んに言われる昨今、歴然たる「都市部」である江東区深川地区において、町内会ごとに神輿、それも結構なデカさの、さらになにしろ「水掛け神輿」ですから水を掛けても大丈夫なものを所持・管理されているというのは、これは結構稀なことなんじゃないかと思います。

コロナ禍だとかそういう事どもに頓着することなく盛大に行われるようで、なによりです。

約10年間ほど、このお祭りに文字通り「付きっきり」だった時期があります。あの頃はなにかって言えば神輿関係の取材ばかりしていた気がします。

本祭りは3年に一度ですが、その間の2年間は何にもないのかというと決してそんなことはなく、子ども神輿の連合渡御あり、お宮の神輿(二ノ宮)の渡御有り、やれ○○町で神輿を新調した・修繕した、△△町で神輿練習会がある、○日には幹部総代の会議がある、と、なにしろ一年中、っていうか年がら年中「お祭り」と関わりっぱなしの10年間でありました。

100万人からの人出が予想されるこのお祭りですが、刮目すべきポイントは、これが「単なる大イベント」というところに帰結してしまっていないところです。

いつだったかこの連合渡御の「10時間生放送」なる番組を作ったことがあります。その際に総代さんに耳にタコができるほど言われたのが、「単なるイベントとして採りあげるな」ということでした。

即ち、お祭りというものはあくまでも神事(の一環)であって、神輿はその名の通り神様の乗り物である。そのつもりで制作・放送しろ、と。

このことは思いの外ないがしろにされがちな事柄で、余所のお祭りなどには、この総代さんらの危惧してたような「単なるイベント」としてしか見られてないようなものも多い由です。

深川のお祭りはそういう視点で切り取るな、と、クドいようですが口を酸っぱくして言われました。いやホントに言われまくった。

実際「深川八幡祭り」には、神事としての崇高さがあります。これは参加したらわかります。

実際サケ飲んで神輿担いでる人もいなけりゃ、カラフルな肌の方々が神輿の上に乗ったり、ケンカしたり、なんていうことも「絶対に」ありません。

神輿の上に乗ってはっちゃけたり、ケンカなど大暴れしたいから祭りに参加する、というようなヤカラが多い中、このあたりが徹底できているというのはスゴいことだと思う。

深川八幡祭りは、そりゃもうトンでもなく賑やかな、盛大なお祭りです。

恐らくは猛暑の中での挙行となると思われますが、「水掛け祭り」という名のとおりこの神輿渡御はその道中で神輿に水を掛けまくります。なぜ掛けるのかには諸説ある由ですが、とにかくザブザブ、ドカドカ掛けます。

なので、8月半ばの開催ですからまぁ暑いことは暑いのですが、とりあえず合法的に往来で水浴びできるわけなので、暑気も自ずから払われます。

4トントラックに水を満載してバケツで掛けまくるは、消防団が放水車で散水するは、そりゃもう大騒ぎです。

おかげでオレは今でもカメラの防水化には大いなる自信を持っております。

本祭りの年は、前年の年末くらいから幹部総代の皆さんがピリピリしてて、オッカなくて弱ったものです。

以前初詣で取材の際に、神輿総代の方の娘さん息子さんにお会いしまして、その際に言われたことがあります。

“今年はあんましウチに寄りつかない方がいいよ”

と。

別にオレがなんかやらかして嫌われたとかいう話ではなく、要するに本祭りを控えてみんなピリピリしてるから、ヘタに会うと怒られるよ、ということです。

昨今はさすがにそこまでじゃない、と、こないだ和服を受け取りにいったときに呉服屋のオバちゃんがおっしゃってましたが、なにしろさぞかし皆さんお忙しいことでしょう。

無事な成功をお祈りしております。

コオロギその他、虫、ムシについて。

ついて。コオロギでもなんでも美味けりゃ食うわけですが、昔々に聞いたところコオロギはプリン体が結構多めなので痛風を気にする方には危険、とか。

あとまだエサの規制関係が無いので人間には不適なモノを食ってるやもしれず、ドンドン育ててガンガン食いましょう、となるまでにはまだ色々越えなきゃならないハードルがある、ってことでした。

昔々っていっても数年前くらいの話なのですが、その辺はクリアになったんですかね。なったからこれだけ色んなところで売られてるわけですよね。我が国の食品に関する規制は他国から顰蹙買うほど厳しいそうなので、それらを越えて出てきたモノですからまぁどうってことは無いんでしょうけども。

虫っていえば、某「とんかつ+お代わり自由なキャベツ&ライス&シジミの味噌汁」な店で夜メシを食った際、キャベツの中になんか虫が動いてたので、店員さんを呼んだら新しいのに替えてくれまして、これで一件落着かと思いつつ食い終わって勘定しに行ったら、なんとなんと!オレの食った分はお詫びとしてサービス=タダでOK、となった、ってことがありました。

たかだか虫がいたくらいでタダにしてもらったんじゃ申し訳ないので、レジのアンちゃんに、そんなこと気にせんでいいからカネを受け取れ、と言ったのですが、アンちゃん、ニヤッとニヒルな笑顔をひとカマシして、いやぁ、こちらの責任ですから(微笑)、と。

かくして当夜の夜メシは期せずしてタダメシになったのでした。

畑で穫れたものに虫がいるのは当たり前ですよね。まるっきりいない方が怖いよな。どういう土壌だよ、というね。

でもまぁ気持ちはわかります。キャベツやレタスの中に虫がいたら、やっぱし取っ払ってから食います。

前述の某「とんかつ+お代わり自由なキャベツ&ライス&シジミの味噌汁」な店での話からもわかるように、虫、ムシを躊躇なく食えるようになるにはまだ時間がかかりそうな気もします。

本田猪四郎とか小津とか北杜夫とか。

「娯楽作品のいいものが芸術作品であり、いかな芸術作品であろうとも、面白くなきゃ映画は駄目だ」。

なんていい言葉なのでしょう。まず娯楽作品であるべし、芸術作品とは娯楽作品の下部フロー、あくまで数多ある属性のひとつに過ぎない、ってことですね。ちなみに本田猪四郎の言葉です。「第七芸術」且つ「総合芸術」たる映画においてそうなんですから、全ての芸術なるものはかくあるべし、ですよ。

またいわく

「どうでもよいことは流行に従い、 重大なことは道徳に従い、 芸術のことは自分に従う」。

これは小津の言葉です。真理ですな。これ小津が結構若いときの言葉なんですよね確か。若くしてなかなかこういうところには至れないものですよ普通。いやさすがです。

でもって、この2発言を統合しますと、要するにひらたく言っちゃうと「オレが面白いと思えたものをおまえらも面白がれ」ってことになりませんか。

この実現には圧倒的な自己肯定の意識が必要な気がしますが、この類のパワーについて太宰は「巨腕」と表現しておりますね。シェイクスピアに対して「天才の巨腕を感じる」と、これはなにで読んだかまるで覚えてないのですが、シェイクスピアって言ってるくらいなので「新ハムレット」だと思います。多分。いや知らんけど。

要するに、良い作品を作るにはまずパワーが必要だってわけですね。

そして、自らのパワーと折り合いをつける程度の理知。

ただ「巨腕」を振り回してるばっかりじゃなく、内なるパトスを御するだけの理知的な部分が無くちゃアカンでしょうからね。この「内なるパトス」ってのは北杜夫のお言葉です。マンボウ先生が「幽霊」をモノするまでくらいの、湧き上がって湧き上がって処置に困る己がパワー、これを持て余してた時期についての表現でした。

関係ないですが北杜夫作品で一番「面白い」のは「大日本帝国スーパーマン」です。大日本帝国スーパーマンが米国のスーパーマンに勝負を挑む、というお話です。

今しがたフト思い立って当作のレビューを探してみましたが「あまりにバカバカしくて面白くなかった」とありました。これだけで必読ということがおわかりになるかと思います。異論は認めます。

旧友再会と「ビビンバ・カルビ弁当」について。

30年ぶりに旧友と会うことになりました。まさに「旧友再会フォーエバーヤング」です。30年前の自分がどんなだったかもはや覚えてませんが、とりあえず今より30歳ほど若かったんでしょうきっと。

さてどこで落ち合いましょうか、ってことで、先方様から実に10店舗ほどの候補が速攻で挙がってきました。

オレとしては「30年ぶりの再会である」って事こそが厳然たる主題であって、その場所がどこであろうと・なんのお店であろうとどうでもいい、サイゼとかスシローでも全然OKなのですが、どうやらそういうわけにもいかない由。

いいじゃんかどこでも、と思うのですけどね。

で、オレの方もいくつか候補を考えてみたのですが、そこで、オレはこういうときに使える店をほとんど知らないってことに気づきました。安心して(?)案内できる店が4、5店くらいしかないの。

考えてみれば外食する際、オレはずっとずっと同じ店に行って同じメニューばかり食ってるのです。押上の焼肉屋か、千駄ヶ谷のニンニク豚骨ラーメンか、あといくつかくらい。

そういえば新人時代、昼メシに関して当時の上司にメタクソに怒られたことがありました。

オレが来る日も来る日も「ビビンバ・カルビ弁当」ばかり食べてるのが気に入らない、というわけです。

“オマエみたいに毎日毎日同じものばっかり食って平気なやつはクリエイターには向かないから辞めちまえ!”

と、結構ガチなトーンで怒られたです。事務所内に怒声が響いたですよ。なにがそんなに気に入らなかったのか不明ですが、まぁなんか気に障ったんでしょうね。

すいません明日からは別の昼メシを考えます、って、考えたら妙な謝り方をしたのを覚えてますが、そうはいっても「ビビンバ・カルビ弁当」以外に食いたいものは無し、仕方ないので翌日は「ビビンバ・カルビ丼・お持ち帰り」にしたのですが、いやもう死ぬほど怒られました。ナメてんのか!!って。

今考えたらひとが何を食おうと大きなお世話だよなぁ、と。

しかし、クリエイターとしてどうなのかはともかく、やっぱし色んな店を知ってる方がいいですね。いいトシした大人として、この度のような旧友再会といった折に案内できる店を知らないってのは、これはもうまるっきり「恥」です。

でもいまさらどうにもなりません。

ちなみに実名でいうとこの「ビビンバ・カルビ弁当」を毎日オレに提供してくれてた店は墨田区八広にあるニューミートマテリオって肉屋さんで、弊社のメインバンクがこの並びにあるのでちょうと今日店前を通ったのですが、まだありました。現存。

ビビンバ・カルビ弁当があるかどうかは不明です。

時代は変わるのであります。

どっかの高校のバレー部の顧問が「練習中、部員に暴行疑い」だそうです。「10代の男子部員1人に対し、服を引き剥がした上で髪をわしづかみにして引きずり倒し、バレーボールを顔に投げつけるなどの暴行をした疑い」って、これだけ読むともはやキチガイの所業ですが、まぁ、そうなんでしょうね。タイやカンボジアにいるマカク系のサルでも意味も無くそういうことはしません。

オレも昔、某小学生女子バレーボールの練習取材でドン引きしたことがありますよ。AM8:00からPM10:00までほとんど休憩なしで、その間監督だかコーチのオッサン、常に誰かしらを引っ叩きまくってました。あれだけビンタしたらした方の手も晴れちゃうんじゃないかと思ったものです。

恐ろしかったのは、このサイコパスでサディストな監督だかコーチもさることながら、それをまるっきり許容してる保護者ね。むしろ称賛してる空気でした。強くなるためには致し方なし、という。冷静に考えればそんなことしない方が強くなるにきまってるわけですが、もはや誰もそうは考えない。これが洗脳というモノか、と思いました。

オウム信者の多くもあのバカバカしさ極まるさまざまな「ワーク」をほぼ肯定的に捉えていた由。これとなんの違いがあろうか。

また、江東区在の某都立高校が甲子園出場した際に主力選手をスタジオにお招きして番組を作ったのですが、このときには逆の驚きがありました。1年生が3年の主将に、先輩の彼女かわいいんスよ〜、とか言ってましたよ。やめろよ〜、いいじゃないスか〜写真も放送しちゃいましょうよ〜、とかってやりとりがありました。

前述したようなサイコパスでサディストな連中には理解できないのでしょうけども、こういう感じで甲子園に行ってんだからね。

考えたら悲劇的なことでもありますね。このサイコパスでサディストな連中からしたら、こういう子らの活躍はアイデンティティの否定でもあるでしょう。オレがやってきたことはなんだったんだ、みたいな。

時代は変わるのであります。悩み大きものよ、時代は変わってる、ですよ。斉藤哲夫ですが。

モノの値段とは。

モノのお値段というものは難しいものです。

先だってにも書きましたが、このお正月や節分は和服で過ごしました。いずれも頗る好評なので、3月の初午祭にもこれで行こうかと思っております。

着てる当人としてもこりゃもう非常に着心地がラクチンなので、もうこの際マジでずっと和服で暮らそうかと思います。差し当たって事務所内では基本的に浴衣&ヘコ帯で過ごしておりますが、さすがに浴衣だけだとまだ寒い。そもそも浴衣とはこんな真冬に着る物では無い、ってことで、わざわざ防寒ズボン下とヒートテック上半身肌着を大量購入してどうにかやっております。

で、調子に乗って着物をもう一着作りました。昨日の夕刻に出来上がった由。でも今日は起きたら夕方だったので諦めて、明日か明後日に撮りに行く予定です。

二着目をお願いしにお店に行った際、まだまだしばらく寒い日が続くけども、羽織の上に着るような、洋装におけるオーバーやらコートみたいなのは和服だとどうなるのか、と聞きましたら、いのがありますよぉとか言って出してもらったのが和装コート、ものの良し悪しなどなんもわからんので取り急ぎナンボになるのか聞きましたら、37万だってんですね。サンジュウナナマンエンですって。

世の中にはここで、ほぉなるほどではいただきますか、なんつってポンと買っちゃえる方もおられるんでしょうね。でもオレはそういうタイプじゃないのです。

でも、なんだかんだ良いものを買っちゃったほうが、長い目で見たら結局おトク、リーズナブル、ってことは往々にしてありますね。

昔オレは7、8000くらいのフェイクレザーのアウターを愛用してたのですが、撮影屋なんかでボロボロになっちゃうので大体1シーズンごとに買い直してたりしました。

で、あるとき一念発起して100000くらいの本革のを買ったのですが、あれから16年ほど経ちますがいまだに普通に着れています。特に見た目もどうなってるってこともないので、まだまだ普通に着続けられると思う。

最初っからこれくらいのを買えばよかった、安物買いの銭失いとはまさにこのこと、と。

昔々、東京青年会議所(JC)というところに入れて頂きまして、その最初の会合の際、その当時オレは高校2年のときのバイト給料で買ったセイコーのダイバーウォッチをずっと使ってたのですが、先輩会員の方に

“JCってのはいろんな会社の社長さんも多いから、腕時計はもうちょっと気を使ったほうがいいよ”

とやんわり言われまして、ああそういうもんですかダイバーウォッチじゃアカンですか、ということで買い直した、ってことがありました。

まぁン十万のやつなのですが、あれから10有余年、こないだちょっと某骨董品査定サイトを除きましたら、かつて使ってたダイバーウォッチ、もはやプレミアがついて、ン十万じゃきかないお値段になっててビックリしたものです。

こと「お値段」というものは、塞翁が馬というか、どこでどうなるかわからんものです。

ちなみに腕同駅に関しては、今はどっちも愛用しています。

ただダイバーウォッチの方はもう古すぎて防水機能がダメだってことなので、そーっとそーっと使ってる、という感じです。

映画の話。

「フラッシュダンス」も「フットルース」も、当時はまぁそれなりに面白く観たはずなのですが、今観るとこれはもう愚にもつかないというかお話にならないというか、とにかく観ちゃいられないのです。こんなシロモノをどうして当時面白がれたのか、自分がよくわからなくなります。ウソだと思ったら今一度観てみていただきたい。きっと、ええ、ウソでしょ!?なにこれ!?ってなりますよマジで。オレはなりました。

このあたりの作品は、強引に括ってしまうと「ザ・80年代」というようなことになると思うのですが、要するに当時のオレは、時代の熱やらいろんなものに浮かされてた、ってことなんだろうと思う。

でもって、その伝で「ザ・70年代」という括りになるとどんな感じになるかというと、一連の「パニック映画」と呼ばれる諸作品がそれにあたるような気がします。ってこれだけじゃないでしょうけども、これもまた重要な構成要素ではあろうかと思う。

で、この辺のは今観てもかなり面白く観られます。面白く観られるものが多い。

面白いヤツだけが残ってて、その裏には時間経過の篩に引っ掛からなかった有象無象「面白くない・普遍性を得られるレベルじゃない作品群」が死屍累累、という、そういう感じでも無いのです。面白く観られないのも少なからずあるにはあるのですが、「ザ・80年代」の諸々に比べると佳作に出くわす率が高いです。

ただこれはほぼ思い付きの私論ですが、「ザ・70年代」の諸々は、アメリカンニューシネマの洗礼を受けたか受けてないかで2分できちゃう気がします。例えば「大空港」は受けてなくて、その続編である「エアポート’75」は間違いなく受けてるなぁ、とか。

単なる制作タイミングの問題ではなく、制作側の意識において、革命的なナニゴトかがこの時代にはあった、と言える気がします。なんとなくですが。

じゃあなにがあったんだろうか、と思うのですが、今日は13時間くらい寝てしまったので、そういうことを調べたり考えたりする熱気が我が心中に湧いてきません。

ただ、これまたなんとなくですが、機材の革新はあったんじゃないかな、という気がします。明らかに各カットの軽重が違ってる感じ。いやあくまでも「なんとなく」です。

昨日の投稿に対する反省と、サルの話。

昨日、映画鑑賞における基礎教養の重要性っていうか必要性に関してあれこれ書きましたが、一晩明けまして、よく考えたらそんなのどうでもいいことでした。そいつが面白く観られたらそれでいいじゃんか、と今は思います。めいめいが好きなものを好きなように観ればいいじゃないですか。それ以上何が必要だっていうのですかまったく。

そんなことよりここ数日感じてたのですが、我がfacebookのタイムラインがどういうわけだか猿の動画投稿でいっぱいなのです。猿、サルですね。モンキーですよ。それもどうやらやら特定の種のモンキー。思わず気になって調べましたら、いずれの動画も撮影場所はタイ王国もしくはカンボジア王国の街中もしくは恐らく街外れの森や林な由で、種類はニホンザルの近種でもあるカニクイザルらしい。

動画の内容も類型がありまして、目立つのは、

・どっかのアンちゃんがバイクでボロボロのタンボール箱を運んでくる

・箱を開けると恐らく生まれたばかりの子ザルが1匹、場合によっては複数匹入っている・詰め込まれている

・その子ザルを取り出して、あまりキレイとは言えない感じの水でザブザブ洗う

みたいな感じのやつ。ムチャクチャな扱いしてるですが大抵“so adorabke💓”とかってコメントが臆面もなく付記されてます。

どっから運んできてるんかなぁ。どっかで買ってきてるのでしょうか。でも行くとこに行けばそこら中にいるみたいなんだけどなこういうサル。

あと、親ザルにネグレクトされて怪我まみれの子ザルのようすをひたすら撮ってる、っていうのも多い。すごいなぁと思うのは、そういう怪我だらけ場合によっては血まみれのサルを、彼らは普通に素手で触って、ヘタしたらマウストゥマウスで人工呼吸したりしてるんですよ。死んじゃってハエがたかってるサルを普通に拾って穴掘って埋めたり。怖いもの知らずですね。こういうヤツらが世界中にわけわからんウイルスを伝播させてんだなと思います。っていうかよく平気でいられるよなこの人ら、と。

ニホンザルの近種であるこのカニクイザル、性質はニホンザルよりずっと穏やかで人懐っこく、またタイもカンボジアも敬虔な仏教国であるので、サルが糞尿を撒き散らしたり(サルは賢いけどもトイレを決して覚えないのだそうで)、蛇口を捻って水を飲むけども飲み終わって元通りに締めることが無いからあたりが水浸しになったり、露店の食い物を持ってったりでもって街を結果的に荒らしても、この国民の皆さんは決して「駆除」「処分」という発想にはならない由。

だからまぁサルたちはやりたい放題なわけですね。

で、そんなやりたい放題のサルをひたすら撮ってる動画が世界的に人気コンテンツなようで、当地にはサル動画youtuberが大量にいるんだとか。

前述の「親ザルにネグレクトされて怪我まみれの子ザル」ですが、これはまごうかたなきネグレクト、シッポ掴んで数十メートル引きずったり、あちこち噛みまくったりしてます。これはある種の「しつけ」なんだそうで、これを経て子は親に従順になり、その従順さを以て親による庇護をしっかり受けられるようになるんだとか。

文字通り半殺しに近いような攻撃も見られますが、たまにまかり間違って「全殺し」となっちゃうこともある由。ボロ雑巾のように成り果ててハエがたかってしまってる赤ちゃんザルの動画も大量に流れてきます(そういうのを普通に素手で触っちゃってるわけです彼の国の方々)。

所詮は畜生の悲しさよ、ということになりますが、考えたら人間でもそういうヤツ、ネグレクトの末に殺しちゃう親人間がたまにいますよね。してみるとこの手のヤツは群れ集団においての標準偏差水準を下回っているエテ公と同レベルだと言えますね。いや、しつけの意思がほぼゼロでもって「全殺し」してんだからサルのレベルにも達して無いわけですか。なにしろ、もはやホモ・サピエンスの埒外だと言っても過言ではありませんね。

しかし何故にオレのタイムライン、斯様なサル動画が蔓延するにまで至ったのでしょうか。

不思議です。

忠臣蔵とか「彼岸花」とかいろいろ。

日本映画興収が最大だった1958年、東映が「旗本退屈男」やら「若さま侍」やら「忠臣蔵」で派手によろしくやってたその同じ時期に、松竹が満を時して「オールスター総出演総天然色大作」として世に放ったのが小津の「彼岸花」。集まる誰もが皆微動だにせずモノも言わずただ俯いて着座する、まるで判決言い渡し時の裁判所内かのような厳粛な空気の会場内、なんだかよくわからない詩吟だか浪曲だかが延々とうたわれる、そういうシーンがオープニングから数分に渡って続くアレです。

斯様な地味極まりないオープニングが終わったと思ったら佐分利信は結局最後までシブい顔してなんかブツブツ言い続け、中村伸郎、北竜二は相変わらずセクハラ的な姿勢を崩さないという、今だったらヘタしたら炎上にまで至るであろう当作ですが、これ大ヒットしてるんですよね当時。間違いなく佳作であるとは思うのですが、いけすかないインテリゲンちゃんのみならず広く老若男女の支持を得て、松竹はウハウハだった由。

してみると、今を生きるものとしては少々口惜しいところですが、今と比してこの当時の日本人の文化レベルは高かった、と申せましょう。あの延々と続く詩吟だか浪曲だかのシーンも、当時の鑑賞者は、これだけ続くからこそ生きる後続シーンを待つだけの、おそらく無意識的なところでの「期待力」があった。

これ、この「力」こそが教養なのですよ。

また例えば「おはよう」。

これを「ファスト映画」にしたら、オナラを競ったガキが最後にウンコ漏らすとか押し売りを牛刀で撃退するとか、わけわからんエピソードがわけわからん順番で並ぶわけわからん代物になりますよ。って当作はハッキリ言って普通に観たってわけわからんのですが、このわけわからん事どもの向こう側から匂ってくる機微を楽しむだけの度量が、当時のオーディエンスには厳然とあった、と。

これもまた「教養」です。

小津に限らず、当時の制作側には、物知らずなヤツは置いていって構わない、という割り切りがあったのでしょうね。たとえば前述の「忠臣蔵」でいうと大石の東下りのシーン、大石家と浅野家の家紋がなにであるか知らなかったら意味わかんないですよね。でも、そういうシーンは存在し、また大抵の鑑賞者はこれを名シーンだとしています。つまり大抵の人はを知ってるわけです。

物知らずなヤツは置いてかれるから、観る側の方がちょっと頑張ってる形跡がありますよ。大石と浅野の家紋も知らんで映画なんか観るな、旗本とはどういうものかも知らんで映画館に来るな、ってなことを言われちゃうから、多少は勉強しなきゃアカンな、というね。こういうのを教養、基礎教養というのです。

昨年末だったか、ファスト映画で何億円だか荒稼ぎしたヤツが捕まってました。作品を(勝手に)10分くらいに編集しちゃうアレ。

これはですね、作ったやつも、これを喜んで観たヤツもアカンです。著作権云々以前の話で、ことドラマ型コンテンツというものはストーリーだけわかればいいってだけのものじゃないのです。それは全体の「愉しみ」の、せいぜい4割弱くらいじゃないですか。

ただ10割愉しむには「基礎教養」が必要だ、と。