2014年

杜甫と芭蕉とキーンと小津。

ちょっとマニアックというかメンドくさい事柄になるかもしれませんが、杜甫の「春望」中の
 
「国敗れて山河在り、城春にして草木深し」
 
という一節、これを芭蕉は「おくのほそ道」の中で、
 
「国敗れて山河在り、城春にして草青みたり」
 
と書いてんですよね。
 
「草木深し」と「草青みたり」じゃ意味がエラい違いなわけですが、この件について我が母校(確か高校)の先生は、要するに芭蕉がなにかの理由で「間違った」のだ、と言ってた。
 
当時は、へぇそうですか、って感じで思考停止状態で受け入れてたのですが、良く考えたら間違えるはずが無いので、オレ思うに芭蕉が意図的に改編したんだと思う次第です。
でも、じゃあなんでわざわざ改編したんだか、オレには皆目わからずにいます。
 
そもそも「おくのほそ道」ってのは、どうやらオレなぞが簡単に触れちゃいけない深淵なるものでありまして、例えばドナルド・キーンはこれを翻訳する際、いきなりタイトルからつまづくんですね。
即ちまずこの「おく」をどうしたらいいかわからない、と。
 
で、キーンは結局「The Road To OKU」としました。ここでの「おく」は「OKU」としか表せない、というわけです。本人がそう言ってんだからそうなんでしょう。
 
以上、今kindleでキーン氏の自伝を読んでるのと、弊社の至近に芭蕉庵があるのと、上記の「草青みたり」のくだりは平泉訪問の際に書かれてるわけですがこの平泉には以前仕事で何度となく行ったことがある、という、複合的な理由で突然諸々思い出した次第です。
 
ちなみに「芭蕉庵」とは要するに芭蕉の家のことなのですが、ザックリ江東区のこの辺りにあったらしい、ってことだけはわかってたものの、ながいこと具体的な位置が判明せずにいたのですね。
門人の書いたものによると、芭蕉はカエルが好きで、庵には石のカエルの置物だかが有った由。でもって戦後になって江東区某所を開発すべく掘り返したところ、年代物の石のカエルの置物が出てきた、という。
その発掘場所、現在は「芭蕉稲荷」として祀られてます。近くには芭蕉記念館なるハコモノもあります。さらにそこから徒歩数分のところに、かつて広重が描いた万年橋もあります。普通にみんな通ってる現役の橋です。
 
全く関係無いですが、そこの近所には、小津安二郎生家跡もあります。
正確に言うとその旨の書かれたカンバンが立ってるだけで、正確な位置は不明な由。
カンバンにも、ザックリこのあたりに有ったらしいよ、としか書かれてません。
 
芭蕉の家の正確な場所がわかって、なんで小津の家がわかんねえんだよ、とオレは少々憤っている次第です。

浜の真砂が尽きても世間話のネタはつきない。-その2

先日、今日は一日中世間話して終わった感じ、なんていう書き込みをしましたが、今日も今日でやってしまいました。先日の書き込み時は複数の方々との邂逅で、いわば「世間話ツアー」だったわけですが、今日はおひとり。弊社車両や機材の保険関係のことで来社した保険屋のおばちゃんというかおねえさんと3時間ほど長話してしまいました。
 
なんでこのクソ忙しいさなかに長話したかというと、今回はちょっとした理由がありまして、このおねぇさんだかおばちゃんだかは、どういう理由か知りませんがいわゆるシングルマザーで、今年小学校入学の息子さんがおられるんですね。
即ちこの夏が初めての「夏休み」だったわけですが、子どもが休みだと母親はタイヘンだねぇ、ラジオ体操で早起きしなきゃなんないしねぇ、などと話しましたら、ラジオ体操には一回も参加してないってんですね。
なんで参加させねぇんだ、そんなに早起きがイヤなんか、地域交流の場に子どもを参加させるのは有意義なことだとオレは思うぞ、ひょっとしてオマエはコンビニで店員に土下座させちゃうタイプか、ってなことをもっと柔らかい言葉で話したのですが、真相はそういうところには無く、母子寮に住んでると、早朝のラジオ体操には参加不可能だってんですね。
 
どういうことかというと、その界隈の母子寮はPM10:00からAM7:00までは寮から外出禁止で、ラジオ体操はAM6:30からなので必然的に参加できない、実際母子寮の子は誰も参加してない、との由。
夏休み期間だけAM6:30っから外出可能、とかそういう感じのフレキシブルな対応は出来ないものなんだろうか、と思ったのですが、要するにこういう理由では、恐らくは地方公務員であろう寮母さんの労働条件を変えられない、ってことなんですね。
 
かくして、この息子さん(6つ)は、母子寮住まいであるという、ただその一点だけのために、ラジオ体操に参加して、あとハンコいくつでノートをゲットだ、とか、終わったらそのまま遊びに行こうぜ!とか、そういう邂逅の機会が失われてしまってるわけですね。
不憫な話です。
そもそも、なぜ「母子寮」に「門限」があるのかもオレにはよく分からないのですが、どういう理由にせよ、母子寮の住民には、ラジオ体操に参加する権利は与えられて無い、と。
大げさなようですが、まぁ間違って無い。
 
ついでにいうと、この母子寮のあたりはゴミの収集がAM6:30くらいに来るんだそうで、ゴミ出しに非常に困ってる由です。
前の日の晩に出したらダメだとすると、言われてみりゃ確かにゴミを出すタイミングが無いんですね。
溜まったらオレんとこに持ってきたらまとめて捨てとくよ、と話したのですが、考えたら家庭ゴミってのはプライバシーのカタマリですので、他人に託すのも抵抗があるよねぇ。万一オレがヘンタイだったら中身漁ったりしちゃうもんね。

ということで・・・最近、生活保護受給者がオイシい思いしすぎなんじゃねーか、などと、いわゆる社会的弱者とされてる類の人らが不当にモンク言われがちな感じがありますが、事程左様に、なんじゃないのかね。

浜の真砂が尽きても世間話のネタはつきない。

ご近所にある、お世話になってる神社さまがこの連休にお祭りですので、今日はチョイと早起きしまして、やはり近所の酒屋さんにおサケを買いに行きました。
まずそこで、酒屋のオッチャンオバチャンとしばし世間話。
 
おサケ購入後、そのまま神社さんにお納めに行きまして、そこでしばし宮司さんと世間話。
 
そのあと、先日納品した動画の使われっぷりを確認しにビッグサイトまで行ってきました。
そこで、クライアント諸氏及び代理店氏と、ここではちょっとだけ世間話。
 
で、帰社したときには既に夕方でした。
 
振り返るに、今日は一日世間話ばかりしてた気がします。浜の真砂が尽きても世間話のネタはつきないのです。
 
酒屋のオッチャンと、この辺りはゼロメートル地帯どころかマイナス3メートルだから、川の氾濫なんかあるとタイヘンなんだよな、なんて話をちょうどしてたところでした。その数時間後に記録的豪雨に遭うとは夢にも思わなんだ。
 
宮司さんは山形出身だそうなのですが、戦後山形の空港がGHQ?に接収され、その結果「青い三角の帽子をかぶった米兵」+日本人女性のカップルがそこかしこに溢れ、その後をついていくとガムやらチョコレートやらをもらえた、とのこと。
「ギブミーチョコレート」の話を実体験として聞く、という、貴重な体験をしたのでした。
 
今回納品した動画は、企業展示会における企業ブースのひとつで定時に行われるプレゼンテーション時に用いられるもので、オレが収めたのはBGM&SE付きの動画で、いわゆるプレゼンテーションNaはコンパニオンの方が現場で生でしゃべるのですが、クライアント氏から、このコンパニオン女史が去年と比べて上手いとかヘタとか、2編のプレゼンのうちどっちの集客がどうだとか、いろいろ伺いました。
代理店氏とは、企業展示会において代理店はどこからどこまでが仕事範疇かについて興味深いお話を伺いました。ちょっとだけ動画のダメ出しもされました。

ということで、一日中世間話に明け暮れた今日だったわけですが、特筆すべきは取り交わされた会話の中身の振り幅が広かった、ということですね。
 
ともすれば狭い狭い世界の中だけで完結できてしまう弊社の業界ですが、ゆめゆめそれで完結せず、幅広い視野を持たなければいけません。
ただでさえ、「ギョーカイ」なんていって、自分らの視野の狭さを露呈して憚らないヤカラの多い我が業界です。そういうイヤミで悪しき意味でのオタクに堕ちないように留意しなければいけません。なにより人として。

披露宴。

それにつけても先日の披露宴は素晴らしいものでした。形而的なことだけ書いてしまうと、首相経験者やら現役大臣やら芸能人やらといった出席者、その数ザッと600人(推定)。その「首相経験者やら現役大臣やら」の皆さんもオレの見た限り殆ど中座された方はおられなかったように思います。ご祝儀の金額に悩んだのがバカバカしくなりました。いくら包んだところでオレが最低金額であろうことに疑問の余地が無いからです。
 
なんでまたオレなどがそんな場所にいたかについては、先だってにちょっと触れたように守秘義務の問題があるのであえて書かないですが、新郎氏と非常に微細な知己にありまして、要するにその縁に拠るところです。とにかく、まぁ、なにしろそういう場所におりまして、3時間半に及ぶ披露宴を「堪能」した次第です。
 
新郎氏はザックリなくくりでいうと「二世」というスタンスであられるわけでして、上記したようなそうそうたる列席者の方々も、確かにお父上の縁であるところもあろうかとは思います。
ただ、お父上の逝去後もこうして集われ、中座もせずに最後までおられたということは、そういう縁という財産を余さず保っておられる新郎氏の実力、そしてそのための努力のあらわれかと思います。実際氏はもはやその道において「二世」の冠無くとも通用する立場であられます。
 
以前も書きましたが氏は非常に頭のキレる方で、いろんなところの会合等でお会いするのですが、その際のちょっとした挨拶会話でもオレなどは常に緊張を余儀なくされます。それは当意即妙な切り替えし、なんていう浅薄なものではなく、常にいきなり本質に切り込んでこられるのです。オレよりいくらか年少でらっしゃる氏ですが、見習わなくてはいけないな、と。
 
FB等によると氏はこの披露宴の翌日から精力的にあちこち廻られたりなどされてる由。ちょうど、デカ目の「仕事」について各紙で報ぜられてました。そりゃ忙しかろうて、と。知力と体力、これを両面備えることは重要なことですね。
ちなみにオレは宴の翌日はグウタラしておりました。午前中に左足の爪を切って、午後に右足のを切りました、以上。
 
とにかく、ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに。

お祭り。

今週から「深川八幡祭り」です。今年は本祭りということで、神輿56基勢揃いの連合渡御が執り行われます。地域自治(組織)の有名無実化が盛んに言われる昨今において、町内会ごとに神輿、それも結構なデカさのを所持しているというのは、これは結構稀なことなんじゃないかと思います。当の神社様にはここ最近いろいろあった・・・いやホントにいろーーーんなことがあった由ですが、そういう事どもに頓着することなく、今年も盛大に行われるようで、なによりです。
 
約10年間ほど、このお祭りに文字通り「付きっきり」だった時期があります。なにかって言えば神輿関係の取材ばかりしていました。本祭りは3年に一度ですが、その間の2年間は何にもないのかというと決してそんなことはなく、子ども神輿の連合渡御有り、お宮の神輿(の二ノ宮)の渡御有り、やれ○○町で神輿を新調した・修繕した、△△町で神輿練習会がある、○日には幹部総代の会議があ、と、なにしろ一年中、っていうか年がら年中「お祭り」と関わりっぱなしの10年間でした。
 
100万人からの人出が予想されるこのお祭りですが、エラいのは「単なる大イベント」というところに帰結してしまってないところです。
いつだったかこの連合渡御の「10時間生放送」なる番組を作ったことがあるのですが、その際に総代さんに耳にタコができるほど言われたのが、この「単なるイベントとして採りあげるな」ということでした。即ち、お祭りというものはあくまでも神事(の一環)であって、神輿はその名の通り神様の乗り物であるので、そのつもりで放送しろ、と。

このことは存外ないがしろにされがちな事柄で、余所のお祭りなどには、この総代さんらの危惧してたような「単なるイベント」としてしか見られてないようなものも多い由です。
深川のお祭りはそういう視点で切り取るな、と、クドいようですが口を酸っぱくして言われました。言われまくった。

実際「深川八幡祭り」には、神事としての崇高さがあります。これは参加したらわかります。実際サケ飲んで神輿担いでる人もいなけりゃ、カラフルな肌の方々が神輿の上に乗ったり、ケンカしたり、なんていうことも「絶対に」ありません。神輿の上にのってはっちゃけたり、ケンカなど大暴れしたいから祭りに参加する、というようなヤカラが多い中、このあたりが徹底できてるというのはスゴいことだと思う。
 
深川八幡祭りは、そりゃもうトンでもなく賑やかな、盛大なお祭りです。恐らくは猛暑の中での挙行となると思われますが、水掛け祭り・水掛け神輿といって、この神輿渡御はその道中で神輿に水を掛けまくります。なぜ掛けるのかには諸説ある由ですが、とにかくザブザブ、ドカドカ掛けます。なので、まぁ暑いことは暑いですが、とりあえず合法的に往来で水浴びできるわけなので、暑気も自ずから払われます。4トントラックに水を満載してバケツで掛けまくるは、消防団が放水車で散水するは、そりゃもう大騒ぎです。おかげでオレは今でもカメラの防水化には大いなる自信を持っております
 
本祭りの年は、前年の年末くらいから幹部総代の皆さんがピリピリしてて、オッカなくて弱ったものです。
今週の土日が今年の本番です。さぞかし皆さんお忙しいことでしょう。成功をお祈りしておりますよ。

酷暑の中、名古屋ロケしてきました。

以下、愛知は名古屋の雑感です。
名古屋はみんな車の運転が荒いから気を付けて、なんてことを言われてたのですが、実際行ってみると皆さん運転が非常に穏やかで拍子抜けでした。道に明るくないが故に割り込み等もしばしばやらかしたのですが、都度皆さん穏やかに、優しくそれを許してくれました。
そういや沖縄でも大阪でも愛媛でも同様なことを言われましたが、いずれにおいても運転の荒さに閉口するような体験はついぞしませんでした。これは思うに、要するに日本で一番運転が荒いのは東京だ、ってことなんじゃなかろうか。実際今回も、用賀から首都高に入っ他途端に、名古屋高速との運転マナーの差異を強烈に見せつけられました。
 
あと、これも事前に聞いてたのですが、名古屋にはやたら喫茶店が多く、でもってどこもモーニングやらがメッタクソに充実している、と。
確かに、コーヒー一杯400円で、サラダ+トースト+少々のオカズが「サービス」で付くんですね。東京だったら普通に総額800円くらいになると思うのですが、かの地では総額400円ポッキリ、ジャムをひとつ追加すると+30円とか細々オプションもある由ですが、400円で十全な朝メシにありつけちゃうというね。これで店としてやっていけるんだとしたら、東京のこの値段はなんなんだ、ということになるわけですが、かの地ではどこでもこの価格帯のようです。オカシな話です。
 
朝メシ問題としては、このトーストの「名物」のひとつに「小倉トースト」なるものがありまして、これは焼いた食パンの上に山盛りのアンコが乗ってくるんですね。朝っぱらからこういうものを食ってる名古屋人にはきっと胃腸の丈夫な人が多いんだろうと思う。
 
あと食い物でいうと「ういろ」というものがありまして、これは以前大阪で、こんなものを食ってるヤツはおらん、お茶請などでしばしば目にするがこれはひとつが永続的に世の中に廻ってるだけにすぎない、そもそもこんなものを有り難がって食ってる名古屋人は○○○がオカシい、などとよく聞いたのですが、なんのなんの食ってみたら存外美味いのです。○○○がオカシいのは他ならぬ大阪人の方だったのだ!とオレは確信した次第です。
 
現地入りするまで、名古屋ではみんな「ぎゃーも」とか「みゃー」とか言ってて何しゃべってるかわかんないんじゃないか、とか、コンビニとか無いんじゃないか、とか、ちゃんと道路は舗装されてるんだろうか、などと心配していたのですが、結論から言うといずれも杞憂で、なにしろ非常に良い街でありました。私的ベスト3に入るね。

母校。

先日というか一昨日、我が母校(高校)の部活の先輩との打ち合わせ兼飲み会がありました。OBとして我が出身部、ひいては母校そのものを如何にして盛り上げるか、という趣旨で、そのための方策について文字通り膝を突き合わせての会合と相成りました。ホントはそもそもオレ自身「OB」を名乗れるような立場では無いのですが、なんだかなし崩しに誘って頂いて、図々しくも参加している次第です。
 
歴史と伝統の裏打ちのある我が母校ですが、告白しますとどこかのタイミングでそういった伝統が切られて現在に至っている、という印象が常々ありました。なんやかやで、いろんなところが昔と違っている、それは形而的な事柄のみならず、本質的なところで・・・と。
一昨日は先輩方とそんな話もしまして、その末に出た結論というのは、やはり「共学化」がデカかったんじゃないか、との由でした。共学化によって我が母校は、それまで続いてきたナニゴトかを切り捨てざるを得ない、という状況に陥った感じがあるようです。バンカラなばかりでは女子受験者が引いちゃうんじゃないか、とかね。さながら文化大革命後の中国の如し、です。歴史は有っても、それはそれ、という。
変わるためには、場合によっては切り捨てなきゃならないものもあるんですね。でも、それは世の常というものです。
 
でもまぁ切り捨てるものもあれば、代替として得たものもきっとあるんだと思う。某先輩は、運動部の試合などの応援にチアガールが出張ってるのがどうにも生理的にダメダメな雰囲気でしたが、彼女らだって往時の応援団の面々と同じくらいガンバってるんでしょうから、そういうことは言いっこなしですよ、と。
我が出身部にも最近「女子マネ」がいるらしいのですが、スコアブックつけたり用具や部費の管理なんかは、ガサツなヤローなどより、ちゃんとした女の子がやった方が良いに決まってます。自明です

共学になってからもうずいぶん経ちますので、共学としての伝統だってそろそろイイ感じに熟してきている頃かと思います。そんな中に男子校だった往時のアレコレに拘っても詮無いのかもしれません。新生の母校に期待するところです。
 
ところで諸々の資料作成のために我が母校のサイトなどつらつら眺めておりましたら、「放送同好会」なんてのがあるんですね。
その説明には

「放送は「声、音、映像」を用いた自己表現の場所です。自分の声をいかしてナレーション活動をするもの、BGM作りや、状況にあったカメラ撮影をするものと様々です。」

とありました。
スバラしいねぇ。BGM作りってなんだろうガレージバンドかな、とか、カメラは何を使ってんのかな、などなど、興味津々です。メディアで「自己表現」なんていうのは高慢でしかないのですが、そういう紋切型の部分にイチャモン付けるのは無粋というものです。
 
ということで、近々に上記の先輩方と母校にお邪魔することになりましたので、ついでにこの放送同好会のお話も伺ってみようと思います。

「セーラー服を脱がさないで」などについて。

今日のディナーは健康のために立ち食いソバにしたのですが、店内に「セーラー服を脱がさないで」がかかってまして、ゆで上がりを待ちつつ30年ぶりに、というかちゃんと聴いたのは初めてかもしれないのですが、まぁとにかく全編聴いてしまった結果、これは、なんというか、ヒドい歌だなぁ、と。
バカバカしいだけなら世の中にまき散らす害も最小限ですむところ、この歌には決定的に品が無い。こんなゲヒンな歌だとは思わなかった。こんなどうにもならない歌が30年前にはやたらヒットしたわけですが、この歌及びその歌唱者を支持したのは主にオレなどの世代であるので、こんな歌を流行らせた責任の多くは我々にあるんだよな、と、なんかソバ屋で反省してしまいました。

考えてみるとこの2014年現在、世に妄言駄言をまき散らしてるのは主に30歳台後半から40歳台中盤くらいな気がします。
例えば原発事故やその瓦礫処理に関してなどに於いても、バカ丸出しな発言を繰り返してるのは大抵オレと同世代くらいのオッサンオバチャンだったりします。
ちょと調べたらわかるだろ!ってなことを堂々と発言してるさまは、とりあえずみっともない。実にみっともない。そして恥ずかしい。この類の歌どもを有り難がって聴いてたようなのがマトモであるわけがないので、それもむべなるかな、です。情けない限りです。申し訳ない。

ところで最近の歌はどうかというと、AKBの一派といい、SEKAI NO OWARIといい西野カナといい浜崎あゆみといいきゃりーぱみゅぱみゅといいperfumeといい、これよりはもうゼンゼンまともマトモだと思えます。
そりゃ中には「セーラー・・・」に近いレベルで下らないのもあるけども、少なくともこれほどまでにゲヒンでは無い。
逆に、ここまでアケスケに品の無いバカ歌が今リリースされたとしても、誰がどう小細工したところで絶対にヒットしないだろうと思います。

だから、いわゆる「最近の若者」は、きっとオレなんかの世代よりずっと優秀なんだと思う。
そして同時に、思うにオレなんかの世代は、有史以来初の「今どきの若いもんは・・・」と言う資格の無い世代なんだろう、と思う次第です。

ところで前述の立ち食いソバ屋ですが、以前ここはきっと世界で一番マズいソバ屋に違いないとか書いたと思うのですが、不思議なことに今日は存外美味かった。
ただ、盛りソバ大盛りを頼んだのですが、厨房内で、茹でる係の店員と別の店員との間で、「玉は?」「ひとつ!ひと玉!」という会話が有ったのが気になっています。実際出てきた盛りソバは、少なかった。

「アナと雪の女王」観てきました。

思い立って深夜になって「アナと雪の女王」観てきました。出先の至近でやってたので、フト思い立って、という感じで。
人気話題作だとどこか小馬鹿にして手を出さないような俗物はオレとしては忌み嫌う対象で、いわゆる話題作だろうがマイナー作であろうが拘り無く観るのがモットーだったのですが、振り返るにここ数年は無意識のうちにそんなヤカラになってたような気がします。昔はE.T.だろうがフラッシュダンスだろうが戦メリだろうが自分のモノサシだけの判断でなんの拘りも衒いも無く観に行ったじゃないか、こんなことじゃいけないなぁオレ、と思い知らされた作品でした。いやぁ、これはヒットしますわそりゃ。食わず嫌いはいけません。
考えてみれば極めてシンプルな、ある意味不躾なところさえある当作品ですが、そんなことにはお構いなしに魅せてしまうってのは、これは太宰の言う「才能の巨腕」というやつでしょうか。
 
いつだか「レ・ミゼラブル」観たときにも感じたのですが、アチラの方々は実にうまいこと己の宗教世界を活かしきるなぁ、と思います。
言い方を変えると、誰も彼も自らの宗教を意識して暮らしてるんだろうな、と思う。いろんな人種が共同生活するにあたって、宗教というものが貴重な共通価値観として機能しておるな、と感じます。
 
たちかえって我が国ではどうかというと、このあたりがなかなかうまいこといってない感じがあります。なかなか作品の中に宗教が生かされてない気がする。
外国人記者クラブのみなさんいわく、ニホンジンほど信仰心の強い国民はおらない、とのこと。だとすると思うに我が国のそれは各々の無意識層にまで浸透しきってるだけに、なかなかあえて具現化しにくいのかもしれません。宮崎パヤオ氏が「もののけ・・・」や「千と千尋・・・」でちょっとだけ試みてるような感じもありますが、当作品のようにその部分がそのままエンターテイメントの主題にはなってませんね。
まぁこのことは、どっちが良くてどっちがダメってな話じゃないですけども、なにしろ当作は(も)、実にその辺がなんの衒いも躊躇いも無く表現されてますな。汝の隣人を愛せよ、右のホッペタを殴られたら左も差し出せ、です。そしていきつくところはアガペーなわけですね。
 
ところで某サイトでのレビューをみるに、「期待外れ」ってな意見も散見されます。思ってた展開と違う、オレの考えるディズニー映画はこうじゃない、というような。
まぁそれはそれでひとつの意見ではあるのですが、私的には、事前に想像してたストーリー展開と違ってるからこそ面白いんんじゃねーかよ、とも思えます。予定調和じゃないとイヤだ、ってのはいかにも狭量だねぇ。
 
自分の器の範囲でしか作品を愉しめないってのは悲しいことです。器を広げてくれるのが「佳作」というものですよ。当作は、特にお子さんにとってはそういう意味で最良の「佳作」だと思います。

黒澤映画音楽についてちょっとだけ。

黒澤の「赤ひげ」において、佐藤勝はハイドンやらブラームスやらから盛大にパクりまくった、などという不埒不遜な見解に対して、今オレは大いに憤っております。
ただまぁ事情を知らなかったらそう考えてしまうのも宜なるかなで、要するに「赤ひげ」内の、例えばメインテーマは完全にブラームスの交響曲(何番だかは忘れた)だし、長坊が出てくるテーマはハイドンの「驚愕」(正式名称は知らない)にクリソツです。それはまぁ事実そうなんで、そこのところには抗いません。
でもね、と。
 
有名な話ですが、黒澤は作曲家に発注?する際、例えば「ベートーベンの第○みたいな曲を」というようなことを言ってきたそうで、さらに確かこの「赤ひげ」のときは、実際にベートーベンの第九だかに合わせて編集した映像素材をみせて、こういう風にしたいんでよろしく、と言い放ったとか。
初めてこのエピソードを知った際、オレは引いた。引きました。ドン引きでしたね。逆の立場だったら顔面蒼白茫然自失、恐らく怒りも忘れて忘我の境地、です。
少しでも、単なる収録物ではない「映像編集」をやったことのある方なら、これがどんだけムチャな要望かおわかりになると思う。音楽の旋律・小節に映像を合わせてつないで、それでバッチリだってんなら、もうその曲を使ってもらわなきゃどうにもなりません。ちなみに武満徹は「乱」だかでやはりこれをやられて、「オマエとは金輪際仕事しないぜ!」となった由。そりゃそうでしょう。さすがにやってられませんこれはね。
 
で、こんな想像を絶するムチャ振りに対して、よくもまぁ佐藤勝はこんな名曲をモノしたもんだなぁ、と感嘆する次第です。スゴすぎます。
そして、作ってる立場のことも考えずに、安易にパクっただナンだというヤツに憤るのです。
 
 
ということで、明日はいよいよ納品です。