人の話を聞く、ということ、など。

いわゆる「大人買い」というやつで、先日、先般出された沢木耕太郎全集を(今出てる分だけ)まとめて購入しまして、まさに毎日むさぼるように読んでおります。
そのおかげで今週のトータル睡眠時間計8時間(11月5日(金)現在)という状態で、まぁなにしろ眠い毎日なわけですが、昨日は「壇」を読了しました。
氏のどの著作も、ワタシには非常に面白く読めるのですが、この「壇」には、それ以外の微妙な「感動」を得るきっかけを与えられました。


「壇」は、「火宅の人」で知られる(この作品のみで知られている、みたいなところが、この作家の悲劇だったりするのですが)壇一雄に関する「ノンフィクション」です。
夫人の一人称による回想録という体裁で、作家檀一雄の生涯をつづったもので、これの執筆のために沢木氏は約1年間に渡りインタビューというかたちで夫人に取材したそうです。
全集の、著者による小解説にもこのあたりのことが触れられています。いわく、じっくり、徹底的に「人」に取材し、モノしたかった、と。
エラそうに書評などするガラではなく、またそんな脳も無いので、詳しくは書きません(書けません)が、この「壇」、まぁなにしろ面白かったですよ。
で、ワタクシ的には、この「人から徹底的に話を聞く(そしてそれをまた徹底的に咀嚼する)」というこの姿勢が、ワタシには非常に、ある意味ウラヤましく、また自戒のモトでもあったのでした。
当サイト管理人はかつて某超ローカルTV局におりまして、そこではいわゆる情報番組の類をセッセと作っておりました。
地域情報、というカテゴリーのものがほとんどで、あちこちに「取材」に赴き、「ニュース」という形態でしたら大体1分前後、番組によっては60分くらいにまとめ、放送する、と、これを13年くらい、来る日も来る日も繰り返しておりました。
この「繰り返し」というのが非常にヤッカイな、難儀なものでありまして、人間、同じような事を繰り返してますと、いつのまにか惰性になってしまうものです。
大体レギュラー番組というものは、レギュラーであるがゆえ、その構成はほぼ毎回同様で、ある決まった枠組みにおいて、その中身だけを毎回入れ替える、みたいなことになってるわけですが、何度もこれを「繰り返し」てますと、取材に行っても“ああ、だいたいこれくらい話が聞ければなんとなく埋まるだろう”みたいな感覚になってしまうのです。
そもそもTV番組を作ってる人間というものは、与えられた時間枠を、いかに耳障り・目障り(?)よくまとめるか、ってことがその仕事の第一義になっちゃってたりするもんなんです。断言しちゃってますが、それはホントにそうなんで仕方がない。五感を程よく刺激し、しかし本質的な部分においては、決して刺激的であってはならない、みたいなスタンスを身に付け・・・ある意味身に付けさせられるものなんです。
かくいうワタシも、今思えばそんな悪癖の権化みたいなもんでした。
取材対象が決まる・・・そしたら、その時点で、だいたいそれの紹介方法を決めちゃう。
こういう映像が最初に来て、こういう映像が続き、こんなタイミングでこんな内容のコメントをもらって、最後はこういう感じでしめよう、みたいなことをあらかじめ決めてしまうわけです。
で、実際の取材は、できるだけそれに合わせて撮影をし、インタビューをとる。
インタビューも、あらかじめ自分の頭の中にある内容しか答えられないような質問の仕方したりするわけです。
万一意に反した内容のコメントが出てきた場合は、編集の時点でカットしちゃう、と。
・・・こう書くと我ながらホントにロクでもない姿勢ですが、ホントだから仕方ないです。
あまりに忙しかったりとか、放送において本意ではない部分での「背負ってるもの」があったりすることや、また表現者としての実力不足だったりなどがこういう事態になってしまう原因・遠因だったりするのですが、とにかく、これはおそらくどの局でも、大なり小なりこういうことはあると思います。
氏の著作のスゴいところは、上記したようなところが殆ど無い・・・むしろほぼ真逆な姿勢で、取材・表現をしてらっしゃるところです。
「取材」という行為に対する姿勢、そしてそれを表現することに対する姿勢。
氏を評した文章に「スタイルの冒険」という言葉もありました。
「壇」は、一年間という長きに渡って、ヨソ子夫人から徹底的に話を聞き、それを、夫人の一人称という形で表現しています。
やはり氏の作品である「テロルの決算」では、故浅沼稲次郎氏と、山口二矢という二人を徹底的に調べ上げ、同じ時間軸上での二人の日々を並列に、二本の線として描き続け、それを映像作品でいう「カットバック」のように連ねていき、最後の最後にその二本の線を「交差」させる、という構成になっています。
2002ワールドカップを描いた「杯」では、それが日記形式として、氏の主観として描かれます。
このほか、どの作品を採ってみても、まず、氏は自分に課した「取材」におけるハードルがモノスゴく高いです。
自身の琴線に触れるところまで、徹底的に対象と向き合う。
そして、それを表現するスタイルにも妥協が無いです。
こういう対象のときはこういう手法・形式で、という方程式が無い・・・というか、そういう方程式そのものを否定しておられる。
どういう形式・構成で表現すべきか、それを決める際の幅が広い、というか、既成の方法論にとらわれない、「スタイルの冒険」がそこにあります。
取材等が決まると、真っ先に方程式探ししてたワタクシとはエラい違いであります。
このblogのテーマというか「やっていきたいこと」は
“出会った人や思ったことなど、つらつら書いていこう”
ということです。
“つらつら”はともかく、このことはかなりワタシの本音です。
・・・幸いにも(?)ワタシは今、比較的TV局にいたときのようなルーチンワークからは開放されています。
幸か不幸か、仕事において「定時」というものも無い。
局にいた時に背負わされていた事共からも開放されています。
だから、言いたいこと、思ったこと、紹介したいことが出てきたら、上記したような「悪癖」にとらわれる必要がほとんど無いわけです。
このblogでは、いろんなことを、キチンと「紹介」していきたいと思っております。
これは決してネガティブな意味ではなく、飽きたら止めればいいんだ、ってのは、非常にウレしいことでありますよ。
止められない、ってのがあったから、上記のような「悪癖」に陥ってたわけですからね。