小野田寛郎さんにお会いした話。

新聞によりますと、終戦後約30年間、フィリピン・ルバング島のジャングルで潜伏生活を続けた元陸軍少尉の小野田寛郎さん(82)の帰還30年を祝う式典が19日、都内のホテルであった、とのことです。
これで思い出した。当サイト管理人は小野田さんにお会いしたことがあったのでした。


当サイト管理人は、今はこんな仕事をしておりますが、その前は都内某CATV局でもって、さまざまないわゆる「TV番組」の撮影・編集etcをする職にありました。
で、あれはもう5、6年前になるでしょうか、小野田さんと、フィリピンはルバング島に潜伏していた小野田さんにメディアの人間として初めて会ったカメラマンと新聞記者の3人による鼎談、というイベントがありまして、これの取材をしたんです。
会場は青森の某牧場で、当サイト管理人は小野田さんと2泊3日、文字通り「寝食を共にした」わけです。
初めてお会いしたのはこの件に関する打ち合わせ時でした。
築地本願寺内の喫茶店に、約束よりやや早めに小野田さんはいらっしゃいまして、約束より長時間に渡って色々お話を伺ったのですが、当時70歳代後半だったはずの小野田さんの、矍鑠としたその立ち振る舞い、明瞭・論理的なお話には、強烈な「威厳」というものを感じずにはいられませんでした。
でもってこの小野田さんの「威厳」には、その後の2泊3日の帯同中ずっと触れることが出来まして、どこに行っても、誰にあっても、またどんな話の最中であっても、常に小野田さんの背筋は伸び、視線は相手を柔和に見据え、どんなことでも完結明瞭に話される。
単純に、純粋に、尊敬の念を抱いたものです。
・・・人格に打たれる、というのはこういうことか、と思ったです。
小野田さんは陸軍中野学校出身とのことで、いわば超エリート軍人だったわけです。
高度な教育を受け、咀嚼し、その結果としてランボー以上の能力をもって、戦地に赴いた、と。
ルバング島で8/15を迎えるわけですが、上官の命令無しに持ち場を離れることは出来ない、ということで、その後30年に渡ってジャングル内に留まり、最後まで「戦争」を続けておられたのでした。
そんな小野田さんと相対するに当って、まず注意を受けたのは、
「ルバング島ではどんな生活なさってたんですか?」
という質問はNG、ということでした。
NGというか、この質問は無意味だそうで、つまり小野田さんには、ルバング島において「生活」というものは無かった、という次第だそうです。だから小野田さんとしても答え様がない、というわけです。
そこにあったのは「戦闘」であって、決して「生活」があったわけではなかった・・・よくもまぁそんな苛烈な状況で30年以上も・・・と思うのですが、それが出来てしまうのが「陸軍中野学校」出身者である、ということなんでしょう。
バリバリのエリート軍人で、おそらく現在、日本で一番「修羅場」をくぐった人であるはずの小野田さんですが、実物は非常に柔和な方でした。
柔和でありつつ、強烈な威厳に満ちている、このことは稀有なことだと思うのですが、考えたら究極的に稀有な経験を経て現在あられるわけで、それも道理です。
期間30周年を祝う式典の報道によって、ワタシがお会いした当時とまったくお変わりないそのお姿を見、ただただお慶びするばかりです。
ただ、ひとつ小野田さんにお願いがあるとしたら、最近、小野田さんらが文字通り命をかけて守った(守ろうとした)この国に、なんか「ニート」とかいうアホなヤツらが発生し、なんでもかんでも環境のせいにして税金も納めずブラブラしてたりするので、カツを入れてあげて欲しい、ということです。
そういう意味でも、小野田さんには、まだ現役としてガンバって頂きたい、と、勝手に思っております。
小野田さんの活躍の場が残ってる、というか、この国には小野田さんみたいな「お年より」が必要だ、と思っています。
こういう言い方は失礼ですが、今の小野田さんは、いわゆる「やさしいおじいさん」です。
ですが、2、3言でも会話すると、こちらの背筋もシャンと伸びます。
公演なども時たまなさっておられるようですが、ぜひ一度行ったらいいですよ。
得るものがたくさんあるはずです。
現在当ページ管理人は小野田さんにお会いした数年後、いわゆる脱サラというのか、こんな会社を興して現在に至ってます。
サラリーマン時代と比べると、そりゃキツいことも多いですが、そんなときは凛とした小野田さんの姿を思い出して、ガンバろう!、とオノレを奮い立たせてます。